EP36. 解き放つ光
ヴィルヘルムに支えられながら、アズマリアは、ゆっくりと体を起こした。
玉座の間は、もはや、この世のものとは思えない光景に変わっていた。純白に近い光が、部屋全体を包み込み、崩れかけていた壁や天井の亀裂すら、幻想的な意匠のように見せている。肌を刺すような緊迫感と、包み込むような温もりが、同時に空気を満たしていた。かすかに、鈴の音と、無数の囁きにも似た祈りの残響が、耳の奥で溶け合っている。焦げた匂いも、血の匂いも、今はもう、その光の中に溶かされ、ほとんど感じられなくなっていた。
「――行きます」
アズマリアは、震える脚で、しっかりと大地を踏みしめた。
◇ ◇ ◇
「本当に、一人で立てるのか」
ヴィルヘルムが、腕を離すことを躊躇うように、なおもアズマリアの肩に手を添えたまま尋ねた。
「はい。……ここから先は、私が、進まなければならない場所です」
その声には、限界を超えてなお消えない、確かな覚悟があった。ヴィルヘルムは、しばらく逡巡したあと、静かに手を離した。
「――信じている」
その一言が、これまでのどんな激励よりも、アズマリアの背を押した。
◇ ◇ ◇
封印紋様の亀裂から溢れ出す《虚無》は、もはや広間の半分近くを侵食していた。黒く渦巻くその塊は、生物のような輪郭すら持たず、ただ、存在そのものが「無」であるという事実だけを、圧倒的な質量として突きつけてくる。
アズマリアは、その闇の中心へと、一歩、また一歩と歩を進めた。
◇ ◇ ◇
「――《神癒》」
これまでとは、比較にならない規模の詠唱が、彼女の唇から紡がれた。
七色に彩られていた光が、今、一つに溶け合い、純白の奔流となって、両手から解き放たれる。それは、まるで、世界そのものが息を吹き返そうとする、その最初の鼓動のようだった。
◇ ◇ ◇
光の奔流が《虚無》に触れた瞬間――
凄まじい衝撃が、玉座の間全体を揺るがした。
「――くっ!」
その場にいた誰もが、思わず体勢を崩す。目も開けていられないほどの閃光と、耳をつんざくような轟音が、同時に押し寄せてきた。
◇ ◇ ◇
「アズマリア!」
ヴィルヘルムが、思わず叫ぶ。だが、光の奔流の中心にいるアズマリアの姿は、もはや、そこからは見えなかった。
「――何が、起きている!」
ハロルドの怒号にも似た声が響く。フェリクスが、震える手で、記録用の紙を握りしめながら答えた。
「《虚無》が、抵抗しているのです……! 千年間、この世界に根を張り続けた"傷"が、そう簡単に消えるはずが……!」
◇ ◇ ◇
光の奔流の中心、アズマリアは、これまで感じたことのない、途方もない重圧と向き合っていた。
癒やそうとするたび、《虚無》は、まるで意志を持つかのように、その侵食を強めてくる。押し返しても、押し返しても、どこまでも際限なく広がっていく、底の見えない闇。
「――くじけ、ない」
歯を食いしばりながら、アズマリアは、自分に流れ込んだすべての想いを、改めて確かめた。
◇ ◇ ◇
エレオノーラの謝罪。アロセールの後悔。リザの涙。フィーの悠久の哀しみ。白煌の温かな安堵。ガルシュタインたち魔族の、千年分の苦しみと願い。そして、セーラをはじめとする、名もなき無数の祈り。
「――私は、一人じゃない」
その確信が、アズマリアの中で、静かに、しかし確実に、力へと変わっていった。
◇ ◇ ◇
純白の光が、これまで以上の輝きを放ち始める。《虚無》の抵抗が、少しずつ、しかし確かに、弱まっていくのが分かった。黒く渦巻いていた闇の縁から、わずかに、光が滲み始めている。
「――押している、のか」
アロセールが、息を呑みながら呟いた。
「いや、まだだ」
ガルシュタインが、緊張した面持ちで、闇の中心を見つめていた。
「《虚無》の核は、まだ、健在だ。……この程度で、屈するようなものではない」
◇ ◇ ◇
その言葉が示す通り、闇の中心から、これまでにない規模の圧力が、再び放たれた。
「――ぁ……!」
アズマリアの体が、大きく揺らぐ。光の奔流が、一瞬、その勢いを失いかけた。
「アズマリア!」
その瞬間、ヴィルヘルムが、堪えきれず、光の奔流の中へと、迷いなく足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
「ヴィルヘルム様!? 危険です!」
ハロルドの制止の声も届かないまま、ヴィルヘルムは、光の中心――アズマリアのすぐそばまで、駆け寄っていった。
「一人で背負うな、と言ったはずだ」
彼は、アズマリアの手を、しっかりと握りしめた。
「俺の想いも、一緒に持っていけ」
◇ ◇ ◇
その瞬間、ヴィルヘルムの手を通じて、これまでとは違う、新たな光が、アズマリアの中へと流れ込んできた。
それは、術式でも、魔力でもない、ただの、一人の人間としての、剥き出しの想いだった。
「――ヴィルヘルム」
アズマリアの目に、涙が滲んだ。
その温かさに支えられ、彼女は、再び、強く前を見据えた。
◇ ◇ ◇
純白の光が、再び、力強く輝きを増していく。
だが、《虚無》の核は、まだ、完全には崩れていない。この物語最大の戦いは、まだ、その決着を迎えていなかった。
次の瞬間に何が起きるのか――その答えを知る者は、まだ、誰もいなかった。




