Ep28. 遠くの祈り
辺境エルグラード、治療院前の広場。
夕暮れの光が、黄金色に色づいた麦畑を、燃えるように照らし出していた。風が吹くたび、穂波がさわさわと乾いた音を立てる。焼きたてのパンの匂いが、近くの家々から漂ってきていた。井戸端では、澄んだ水を汲む音が、規則正しく響いている。三年前まで、この土地には存在しなかった、ありふれた日常の音たちだった。
その広場に、一頭の疲れ果てた馬が、土埃を上げながら駆け込んできた。
◇ ◇ ◇
「――伝令です! 皆さん、集まってください!」
馬から降り立ったのは、王都から遣わされた若い従者だった。息を切らしながら、辺境の人々を呼び集める。
その声を聞きつけ、真っ先に駆けつけたのは、セーラだった。栗色の髪をなびかせ、不安げな表情を隠しきれずにいる。
「――お姉ちゃんは!? アズマリア様は、無事なんですか!?」
「ご無事です。……ですが」
従者は、荒い息を整えながら、これまでの経緯を語り始めた。魔王城で明かされた真実。世界の傷《虚無》の脅威。そして、その脅威に立ち向かうため、アズマリアたちが今、力を結集させようとしていること。
◇ ◇ ◇
「――アズマリア様は、皆さんの祈りを、必要としています」
従者の言葉に、集まった村人たちの間に、静かなざわめきが広がった。
「祈り、って言われても……あたしたちに、何ができるんだ」
「詠唱も、魔法も使えないのに」
困惑の声が漏れる中、セーラが、ぐっと拳を握りしめた。
「――できるよ」
「セーラ?」
「あたしたち、詠唱なんて使えなくても、お姉ちゃんのこと、ずっと想ってるじゃん。それでいいって、言ってたよね?」
その言葉に、周囲の大人たちが、はっとしたように顔を見合わせた。
◇ ◇ ◇
「――思えば」
村長の老人が、静かに口を開いた。
「あの方が来る前、この土地には、祈る対象すら残っていなかった。神殿は遠く、聖女様は王都から一度も来なかった。……我々は、祈ることすら、忘れかけていた」
その言葉には、深い実感がこもっていた。
「だが、あの方は違った。何の見返りも求めず、この土地の子供たちを、大地を、癒やしてくれた。……その恩に報いる機会が、今、来たというなら」
村長は、皺だらけの顔に、静かな決意を浮かべた。
◇ ◇ ◇
その夜、辺境エルグラードの村では、これまでにない光景が広がっていた。
治療院の前、かつて枯れていたはずの土地に、村人たちが一人、また一人と集まってくる。老いも若きも、傷を癒やされた者も、そうでない者も。誰もが、静かに膝をつき、両手を組んだ。
「――どうか、アズマリア様の力になりますように」
「お姉ちゃん、頑張って……!」
セーラの声を皮切りに、村中に、ぽつぽつと祈りの言葉が広がっていく。それは、洗練された詠唱でも、正式な儀礼でもなかった。ただ、素朴で、飾り気のない、心からの願いだった。
◇ ◇ ◇
その祈りは、村の中だけに留まらなかった。
辺境の噂を聞きつけて移り住んできた難民たち、旅の商人、そして、かつてアズマリアに救われた者たち――この土地に流れ着いた、あらゆる立場の人々が、その輪に加わっていった。
水路の工事を手伝っていた職人が、道具を置いて膝をつく。孤児院で暮らす子供たちが、小さな手を組んで祈る。誰に命じられたわけでもない、自発的な祈りの輪が、静かに、しかし確実に、広がっていった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王都から逃れてきた人々が身を寄せる、辺境近郊の仮設の避難所でも、同じような光景が生まれていた。
王都を追われ、家を失い、絶望に沈んでいたはずの人々。だが、伝わってきた知らせ――かつて自分たちが軽んじてきた「役立たずの聖女」が、今、世界そのものを救おうとしているという事実に、多くの者が、複雑な、それでいて確かな感情を抱いていた。
「――俺たちが、あの方に酷いことを言い続けてきたのは、事実だ」
一人の老兵が、震える声で呟いた。それは、かつて北方戦線で、アズマリアの治療を受けた者の一人だった。
「だが、それでも、あの方は、俺たちを見捨てなかった。……なら、せめて今は、心の中でだけでも、あの方に力を貸したい」
その言葉に、周囲の人々が、次々と頷き、膝をついていった。
◇ ◇ ◇
王都の焼け跡でも、変化は起きていた。
崩れた城壁の傍ら、瓦礫の中を彷徨っていた人々が、風の噂に導かれるように、それぞれの場所で、静かに手を組み始めていた。誰もが、これまでの人生で、一度もしたことのないような、切実な願いを、声にならない言葉で紡いでいた。
◇ ◇ ◇
その夜、王国全土に広がりつつある無数の祈りの気配を、遠く魔王城で、アズマリアは、確かに感じ取っていた。
「――何か、感じるか」
傍らに立つヴィルヘルムが、静かに尋ねる。アズマリアは、目を閉じたまま、小さく頷いた。
「はい。……たくさんの、温かいものが。まるで、遠くから、無数の光が、こちらへ届いているような」
その感覚は、これまで経験したことのない、不思議な確かさを伴っていた。詠唱でも、術式でもない、ただの想いの集積が、これほどまでに、はっきりとした力の気配を持つのだと、アズマリアは初めて実感していた。
◇ ◇ ◇
「――これなら、いける」
アロセールが、静かに、しかし確信を込めて呟いた。
「魔力の量だけの話ではない。……想いの強さそのものが、術式の安定性に影響する。これは、俺たちの理論の中でも、まだ十分に解明されていない領域だ」
ガルシュタインも、深く頷いた。
「千年間、我らが求め続けてきたものの正体は、単なる魔力の強さではなかったのかもしれぬ。……多くの者の想いを、繋ぎ合わせる力。それこそが、《神癒》の真の本質なのだろう」
◇ ◇ ◇
夜が更け、集まった祈りの気配は、絶えることなく、静かに、しかし確実に増え続けていた。
その温かさに包まれながら、アズマリアは、これまでにない確かな手応えを感じていた。
もう、恐怖だけに支配されてはいない。
これほど多くの人々の想いが、自分を支えてくれている。その事実だけで、これから立ち向かう脅威への恐れが、少しずつ、和らいでいくのを感じた。
◇ ◇ ◇
だが、その静かな夜明けを待たずして――封印の紋様から漏れ出す《虚無》の気配が、これまでにない強さで、脈動し始めていた。
猶予は、もう、本当にわずかしか残されていない。
すべての糸が結ばれ、最後の決戦へと向かう、その瞬間が、確実に、すぐそこまで迫っていた。




