Ep27. 祈りの糸
魔王城の広間の片隅に、急ごしらえの祭壇が組まれていた。
崩れた石材を積み上げただけの、簡素な造りだった。その表面には、フェリクスが徹夜で書き写した古代文字が、炭で丁寧になぞられている。松明の炎が焚かれ、揺らめく灯りが、文字の輪郭を浮かび上がらせていた。石の焦げる匂いと、炭の煙の匂いが混じり合い、鼻の奥にじんわりと沁みる。遠くから、王都の方角へ向かう伝令の馬の蹄音が、微かに響いていた。
アズマリアは、その祭壇の前に立ち、フェリクスの説明に耳を傾けていた。
◇ ◇ ◇
「――《神癒》を触媒として、各々の力を一本の糸のように紡ぎ合わせる。それが、この術式の骨子です」
フェリクスは、震える指先で、祭壇に描かれた紋様をなぞった。
「本来、属性の異なる魔力同士は、混ぜ合わせることができません。紅蓮の炎と轟雷の雷、衝撃波と精霊魔法……それぞれが独立した術式体系だからです」
「でも、アズマリアの力なら」
ヴィルヘルムが、確かめるように口を挟む。フェリクスは、深く頷いた。
「《神癒》は、あらゆる存在を『あるべき姿』へと還す力。属性という壁そのものを、いわば透過してしまう性質を持っている、と考えられます」
◇ ◇ ◇
「つまり、私が結節点になる、ということですね」
アズマリアの確認に、フェリクスは頷いた。
「その通りです。ただし――」
彼は、少し言い淀んだ。
「これほどの規模の力を、一身に通すことになります。魔力残滓の蓄積、精神的な負荷……未知数の部分が、あまりにも多い」
その言葉に、ヴィルヘルムの表情が、目に見えて険しくなった。
「危険だ、ということか」
「否定は、できません」
◇ ◇ ◇
「――だったら、余計に急ぐ理由になる」
リザが、腕を組みながら口を挟んだ。
「準備に時間をかければかけるほど、アズマリアが背負うリスクも大きくなる。……だったら、今できる限りの手を、全部打っておくべきだ」
その意見に、アロセールが頷く。
「小規模な予行演習を、まず行うべきだろう。実戦の前に、術式の挙動を確かめておきたい」
◇ ◇ ◇
その提案を受け、その場に居合わせた小規模な力――エレオノーラの小さな火の粉、フィーの精霊魔力、そしてガルシュタインが差し出した微量の魔族魔力――を、アズマリアが結び合わせる試みが行われた。
「――行きます」
両手を組み、詠唱を紡ぐ。淡い光が、それぞれの力の間を、糸を紡ぐように繋いでいった。
「――っ」
その瞬間、アズマリアの体を、これまで感じたことのない感覚が駆け抜けた。異なる属性の力が、体の中を通り抜けていく。焼けるような熱と、痺れるような冷たさが、同時に押し寄せてくる。
◇ ◇ ◇
「アズマリア!」
ヴィルヘルムが、咄嗟に駆け寄る。だが、アズマリアは、歯を食いしばりながらも、その場に踏みとどまった。
「大丈夫……です。……ただ、思っていたより、負荷が」
繋ぎ終えた光は、やがて一つに溶け合い、淡い虹色の輝きへと変わった。それは、これまで見たどんな魔力の色とも違う、新しい何かだった。
「――これが、根源魔力への還元、というわけか」
アロセールが、感嘆したように呟く。
◇ ◇ ◇
「予行演習としては、十分な成果だ」
ガルシュタインが、静かに告げた。
「だが、これは、あくまで小規模な力を結んだだけに過ぎない。本番では、これの何十倍、何百倍もの規模の力を、そなたが結節点として受け止めることになる」
その言葉に、アズマリアは、静かに息を吐いた。恐怖がないと言えば、嘘になる。だが、退く選択肢は、もう自分の中になかった。
◇ ◇ ◇
「――もう一つ、力を貸してほしいことがあります」
アズマリアは、少し離れた場所に控えていた、王家の従者の一人に声をかけた。彼は、王都脱出の際、王族に付き従ってきた者だった。
「王都の人々、そして辺境の人々に、伝えてほしいのです。……今、私たちがこれから何をしようとしているか。そして、皆さんの祈りが、必要だということを」
「祈り、ですか」
「はい。詠唱を唱えられなくても、魔力を持たなくても、構いません。ただ、この世界が続くことを願う、その気持ちだけで、十分なのです」
◇ ◇ ◇
その言葉の裏には、アズマリア自身の、確信に近い実感があった。
王都で過ごした十八年間、毎晩捧げてきた祈り。それがただの習慣ではなく、確かに何かへ届いていたのだと、今なら分かる。祈りという行為そのものが、この世界の在り方に、静かに、しかし確実に、作用しているのだ。
「――伝えて、ください」
従者は、深く頭を下げると、伝令の馬に飛び乗り、闇の中へと駆け出していった。
◇ ◇ ◇
夜が更ける中、アズマリアは、崩れかけた城壁の上に一人、立っていた。
王都の方角、そして遥か遠く、辺境エルグラードの方角を、順に見つめる。この空の下、どれほど多くの人々が、今この瞬間も、それぞれの想いを抱えて生きているのか――その途方もない広がりを思うと、体の芯が震えた。
だが、その震えは、恐怖だけではなかった。
「――皆さんの想いを、無駄にはしません」
小さく呟いたその言葉が、静かな夜気の中に、確かな決意として、溶け込んでいった。
◇ ◇ ◇
準備は、着実に整いつつあった。
だが、封印の紋様から漏れ出す《虚無》の気配は、もはや猶予がほとんど残されていないことを、雄弁に物語っていた。
すべての糸が結ばれる、その瞬間が、静かに、しかし確実に、近づいていた。




