Ep26. 差し出された手
崩れかけた魔王城の広間――かつて謁見の間として使われていたとおぼしきその場所に、傷ついた魔族たちが、次々と集まり始めていた。
黒く爛れた皮膚、歪んだ角、獣じみた瞳。だが、その一体一体に宿る気配は、確かに理性を持った、意思ある存在のそれだった。壊れかけた石壁の隙間から差し込む朝の光が、埃の舞う空気を淡く照らしている。硫黄にも似た、鼻を突く独特の匂い。だが、それに混じって、微かに、乾いた土のような、生き物本来の匂いも感じられた。誰かが低く唸る声、衣擦れのような音、それらが、この広間に、緊張と静けさを同時にもたらしていた。
アズマリアは、その中央に立ち、ガルシュタインと向き合っていた。
◇ ◇ ◇
「――協力してほしいことがあります」
アズマリアの言葉に、ガルシュタインは、静かに耳を傾けた。
「あの《虚無》に対抗するには、一人の力では足りません。……フィーが言っていました。私の力は、癒やすだけでなく、繋げる力なのだと」
「繋げる、というのは」
「精霊、聖獣、四聖女、そして……皆さんの力を、私が結び合わせることができるかもしれません」
◇ ◇ ◇
その提案に、集まった魔族たちの間から、戸惑いのざわめきが広がった。人間側と手を組む――それは、千年続いた対立の歴史を思えば、あまりにも唐突な話だった。
「我らの力を、人間のために使え、というのか」
一人の魔族が、低い声で問いかけた。かつて騎士だったのだろうか、その体には、崩れかけた甲冑の残骸が纏わりついている。
「人間のためではありません」
アズマリアは、まっすぐにその魔族を見つめ、答えた。
「あなたたちのためでもあります。あの《虚無》が完全に解き放たれれば、この世界そのものが、人も魔族も関係なく、崩壊します。……守りたいのは、両方です」
◇ ◇ ◇
その言葉に、リザが、一歩前へ進み出た。短く刈り込んだ赤茶の髪の下、いつになく硬い表情を浮かべながら、彼女は深く頭を下げた。
「――今まで、悪かった」
「リザ?」
エレオノーラが驚いたように振り返る。リザは、頭を下げたまま、震える声で続けた。
「あんたらのことを、何も知らずに、ただの化け物だと思って、斬り続けてきた。……知らなかったじゃ、済まされないことだと分かってる」
◇ ◇ ◇
その謝罪に、広間に集まった魔族たちの間に、複雑な沈黙が流れた。すぐに許せるような、単純な傷ではない。それは、誰の目にも明らかだった。
だが、やがて――先ほどの、甲冑を纏った魔族が、静かに口を開いた。
「……詫びで、千年の傷は癒えぬ。だが」
彼は、ゆっくりと、アズマリアへ視線を移した。
「その《神癒》の力とやらが、我らを本当に救う可能性があるというなら――我らも、賭けてみたい」
◇ ◇ ◇
その言葉を皮切りに、集まった魔族たちの間から、次々と協力の声が上がり始めた。
「我が魔力を貸そう。……もう、これ以上、同胞が苦しむ姿は見たくない」
「千年間守り続けてきたこの力、無駄になるくらいなら、賭けに使う方がまだいい」
その光景を見つめながら、アズマリアの胸に、これまで感じたことのない、深い感慨が込み上げてきた。
◇ ◇ ◇
「――アズマリア様」
声をかけてきたのは、ガルシュタインだった。
「千年間、我らが守り続けてきたこの魔力――《虚無》を代わりに引き受け続けたことで蓄積された、いわば負の遺産とも呼べる力だ。だが、そなたの手にかかれば、その性質すら、書き換えられるかもしれぬ」
「性質を、書き換える……?」
「そなたの力は、対象を『あるべき姿』へ戻す力だと聞いた。……ならば、我らの中に溜め込まれた、この澱んだ魔力もまた、本来あるべき、清らかな力へと、還元できるのではないか」
◇ ◇ ◇
その考察に、アロセールが、興味深そうに眉を上げた。
「属性を持たない、根源魔力への還元――理論上は、あり得る話だ。だが、これほどの規模となると、前例がない」
「前例がないなら、作ればいい」
ヴィルヘルムが、静かに、しかし力強く言った。
「これまでだって、そうだった。アズマリアの力は、常に、俺たちが知っている『常識』の外側にあった」
◇ ◇ ◇
その日から、魔王城の広間では、これから訪れる決戦に向けた準備が、慌ただしく進められていくことになった。
精霊王への使者、白煌を通じた精霊界とのさらなる連携、そして、魔族たちの魔力を安全に受け渡すための術式の構築。ヴィルヘルムとアロセールが中心となり、フェリクスの解読した古代文字の知識も交えながら、これまでにない規模の儀式が、少しずつ形作られていった。
◇ ◇ ◇
夕暮れ、崩れかけた城壁の上に立ち、アズマリアは、遠く広がる荒廃した魔族領を見渡していた。
千年前、この土地に生きていた人々は、理不尽な運命を、黙って受け入れさせられた。その傷を癒やすことが、今、自分の手に委ねられている。
その重みは、決して軽いものではない。だが、隣にヴィルヘルムがいる。仲間たちがいる。そして今、かつての敵だったはずの魔族たちまでもが、手を差し伸べてくれている。
「――一人じゃない」
小さく呟いたその言葉が、これまでのどんな決意よりも、確かな力を、アズマリアの胸に宿していた。
◇ ◇ ◇
だが、準備が整うまでの猶予は、もう、あまり残されていなかった。
城の中心、封印の紋様から漏れ出す《虚無》の気配は、刻一刻と、その存在感を増していく。
すべての力を結集し、あの世界の傷と向き合う瞬間が、確実に、近づいていた。




