Ep24. 断てないもの
玉座の間に走った亀裂は、瞬く間に広がっていった。
黒く渦巻くその奥から、粘性を帯びた闇が、まるで生き物のように滲み出してくる。触れた床石が、音もなく崩れ落ち、粒子となって闇の中へ吸い込まれていった。空気そのものが震えているような、耳の奥にまとわりつく重い圧迫感があった。鼻先には、これまで嗅いだどんな匂いとも違う、無臭に近い、しかし確かに「何か」の気配だけを感じさせる異様な空気が漂っている。
「――下がれ! 全員、下がるんだ!」
ヴィルヘルムが叫ぶ。だが、その声に応じる間もなく、闇の一部が鞭のようにしなり、近くにいた騎士の一人を呑み込んだ。
「――ぁ、あああああ!」
悲鳴が響く。だが、次の瞬間、その騎士の姿は、まるで最初から存在しなかったかのように、闇の中へ完全に消えていた。
◇ ◇ ◇
「《紅蓮閃・参式》!」
エレオノーラが咄嗟に炎を放つ。だが、それは闇に触れた瞬間、まるで水の中に落ちた火の粉のように、跡形もなく掻き消えた。
「効いてない……!」
「こっちもだ!」
アロセールの雷撃も、リザの衝撃波も、同じように闇に吸い込まれ、何の痕跡も残さなかった。
「なぜだ、これほどの威力が――」
ヴィルヘルムが、剣を構えたまま、動揺を隠せずに呟いた。
◇ ◇ ◇
「――無駄だ」
力なく崩れ落ちるように膝をついたガルシュタインが、絞り出すように告げた。
「炎でも焼けぬ。雷でも壊せぬ。衝撃でも砕けぬ。……《虚無》は、生物ではない。物質でもない」
「では、何だと言うんだ!」
ハロルドが、苛立ちを隠さず問い返す。ガルシュタインは、闇を見つめたまま、静かに答えた。
「世界そのものについた、傷だ」
◇ ◇ ◇
その言葉が、アズマリアの中で、何かと繋がった。
傷。
自分の力は、傷ついたものを、あるべき姿へ戻す力だった。人の体の傷も、荒れた大地の傷も、穢れに蝕まれた魔物の傷も――すべて、癒やしてきた。
だとすれば。
「――私なら」
思わず漏れた呟きに、ヴィルヘルムが振り返った。
「アズマリア?」
「私の力なら、届くかもしれません」
その言葉に、その場にいた誰もが、息を呑んだ。
◇ ◇ ◇
「待て」
ヴィルヘルムが、即座にアズマリアの腕を掴んだ。
「あの規模の《虚無》に、あんた一人の力で立ち向かうつもりか」
「他に、方法がありません」
「方法なら、これから探せばいい。今すぐ突っ込むことじゃない」
珍しく、感情を露わにしたヴィルヘルムの声に、アズマリアは思わず言葉に詰まった。
その時――アズマリアが半歩前へ踏み出そうとした瞬間、闇の奥から、これまでとは比較にならない圧力を伴った波動が放たれた。
「――くっ!」
衝撃波にも似たその余波だけで、居並ぶ騎士たちが次々と吹き飛ばされる。玉座の間の天井が、大きく軋みながら崩れ始めた。
◇ ◇ ◇
「もう保たない! 一旦、退避を!」
ハロルドの怒号が響く。ヴィルヘルムはアズマリアの腕を強く引いた。
「行くぞ! 今は無理だ!」
「でも――!」
「無理だと言っている!」
有無を言わさぬ強さで腕を引かれ、アズマリアはよろめきながらも走り出した。崩れゆく玉座の間を、一行は命からがら脱出していく。
◇ ◇ ◇
城の外、崩落する魔王城を背に、一行はようやく足を止めた。荒い息を吐きながら、誰もが言葉を失っていた。
「……あれが、本当の敵、というわけか」
アロセールが、震える声で呟いた。魔王軍でも、王国の政争でもない、もっと根源的な、この世界そのものを蝕む脅威。
「あんな化け物、どうやって――」
リザの言葉は、途中で止まった。誰も、その先を続けられなかった。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所で、アズマリアは自分の両手を、じっと見つめていた。
力なら、届くかもしれない。だがその代償に、何を差し出すことになるのか――漠然とした予感が、胸の奥で重く渦巻いている。
「――アズマリア」
振り返ると、ヴィルヘルムが、これまで見たことのない、切実な表情でこちらを見ていた。
「さっき、無理に止めて悪かった。……だが、頼むから、一人で決めないでくれ」
その声には、怒りではなく、隠しきれない恐れが滲んでいた。
「私は……」
答えようとした言葉が、喉の奥で詰まる。この力の本当の意味と、その代償を、まだ正確には理解できていなかった。
◇ ◇ ◇
崩れゆく魔王城の奥、瓦礫の下敷きになりながらも、ガルシュタインは最後の力を振り絞り、震える声で呟いていた。
「……千年、待ち続けた。だが、今のままでは……」
その先の言葉は、崩落の音にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
だが、その呟きに込められた警告こそが、この先、アズマリア自身が選び取ることになる、重い決断の輪郭を、静かに形作り始めていた。
世界を救う力は、確かにこの手にある。
だが、それを使うことの意味を、アズマリアはまだ、正しく理解していなかった。




