Ep23. 最後の封印
ガルシュタインの視線の先――玉座の間の中央、これまで誰も気に留めていなかった床の一角に、他とは異なる紋様が刻まれているのが、アズマリアの目にも見えて取れた。
複雑に絡み合う古代文字の輪。その中心だけ、床石の色がわずかに黒ずんでいる。近づくと、そこからかすかに、氷のような冷気が立ち上っているのが分かった。肌にまとわりつくその冷たさは、これまで感じてきたどんな寒さとも質が違う。呼吸をするたび、肺の奥まで冷やされるような、不快な感覚があった。
「これは……」
アズマリアが問うと、ガルシュタインは苦しげに答えた。
「《虚無》そのものを、完全に封じるための、最後の封印だ」
◇ ◇ ◇
「千年前、世界の傷を我らの大地に押し込めた際、神々は、その中でも特に深い裂け目――いわば、《虚無》の核とも呼べる部分を、ここに封じた」
ガルシュタインは、震える手でその紋様に触れた。
「本来であれば、王国の結界と、我らが守り続けてきた封印術式、その両方の力が均衡することで、初めて安定する仕組みだった」
「王国の結界……」
その一言に、アズマリアの中で、これまでの記憶が一気に繋がっていった。聖樹への祈り。地下へ流れ込んでいた、あの光。フェリクスが読み解いた、《根は、都にあり》という一節。
◇ ◇ ◇
「まさか」
アズマリアの声が、震えた。
「私が毎晩捧げていた祈りは……この封印にも、関わっていたのですか」
「そうだ」
ガルシュタインは、静かに頷いた。
「そなたが王都を離れたことで弱まったのは、王国の結界と、四聖女の力だけではない。……この封印もまた、少しずつ、その均衡を崩し始めていた」
◇ ◇ ◇
「――ずっと、気づかないまま、こんな重要なものを支えていたなんて」
アズマリアの声には、隠しきれない動揺があった。何も知らされないまま、幼い頃から続けてきたあの祈りが、まさか世界そのものの安定に関わっていたなど、想像すらしたことがなかった。
「そなたが悪いわけではない」
ガルシュタインは、静かに首を振った。
「神殿の者たちも、その意味の全貌を、正確には把握していなかったはずだ。……千年という時の中で、伝えられるべき知識の多くが、失われていた」
◇ ◇ ◇
ヴィルヘルムが、険しい表情で問う。
「今の封印の状態は、どうなっている」
「――正直に言おう。もう、限界に近い」
ガルシュタインの答えに、その場の空気が、一気に張り詰めた。
「そなたたちがここへ辿り着くまでの間にも、封印の綻びは、着実に広がっていた。もし、このまま何もしなければ……」
その先を、ガルシュタインは言い淀んだ。だが、その沈黙こそが、何よりも雄弁に、事態の深刻さを物語っていた。
◇ ◇ ◇
「――対処法は、あるのですか」
アズマリアの問いに、ガルシュタインは、しばらく黙り込んだ。
「一つだけ、可能性がある。……そなたの力、《神癒》をもってすれば、あるいは」
その言葉が終わるより早く――
城全体が、これまでとは比較にならない規模で、激しく揺れた。
◇ ◇ ◇
「――なんだ!?」
ヴィルヘルムが咄嗟にアズマリアを庇う。ガルシュタインの表情に、初めて、はっきりとした恐怖の色が浮かんだ。
「まさか……もう、保たないのか」
紋様の中心――床の亀裂が、音を立てて広がっていく。そこから、黒く渦巻く何かが、ゆっくりと、しかし確実に、姿を見せ始めていた。
それは、これまで戦ってきたどんな魔物とも違う、異質な気配を纏っていた。生物の気配が、そこには一切ない。ただ、世界そのものについた、癒えることのない傷――それだけが、そこにあった。
◇ ◇ ◇
アズマリアの胸に、これまで感じたことのない、根源的な恐怖が押し寄せてくる。
自分の力が、何のために存在するのか。
その答えを突きつけられる瞬間が、今、確かに訪れようとしていた。
千年間語られなかった真実のすべてを聞き終えたその直後に、世界そのものの命運を賭けた戦いが、静かに幕を開けようとしていた。




