Ep21. 世界の傷
玉座の間に満ちる静寂の中、ガルシュタインの声だけが、低く、途切れることなく続いていた。
燭台の炎はいつの間にか小さくなり、揺れる灯りが、聞き入る一同の顔に、不安定な陰影を刻んでいる。誰も、身じろぎ一つしなかった。石床から伝わる冷たさすら、今はもう、誰の意識にも上っていないようだった。
「千年前――この世界そのものが、異界より流れ込んだ《虚無》という災厄によって、侵食され始めた」
◇ ◇ ◇
「虚無……」
アズマリアが、思わずその言葉を繰り返す。フェリクスの解読で見た、あの一節――《世界の傷、都の地下深くに眠る》――が、脳裏に鮮やかに蘇った。
「そなたたちの言葉で表すなら、傷、というのが最も近いだろう」
ガルシュタインは、静かに続けた。
「炎で焼くことも、剣で断つことも、魔法で砕くこともできぬ。それは、生き物でも、物質でもない。世界という一つの体そのものに刻まれた、癒えぬ裂け目だ」
◇ ◇ ◇
「放っておけば、どうなっていたんだ」
ヴィルヘルムが、険しい表情のまま問う。
「世界そのものが、内側から崩壊していただろう。……大地が、海が、空が、そして、そこに生きるすべての者が、その裂け目に呑まれて消えていた」
その規模の話に、誰もが言葉を失った。国同士の争いなど、この話の前では、あまりにも矮小に感じられるほどの、途方もない脅威だった。
「神々は、その傷を、完全に癒やす術を持たなかった」
ガルシュタインの声に、深い苦渋が滲む。
「だから、代わりに――その傷を、我ら魔族の大地へと、押し込めることを選んだ」
◇ ◇ ◇
「押し込めた、というのは……」
エレオノーラが、恐る恐る尋ねる。
「世界全体が滅びるよりは、一部の民が、その苦しみを引き受ける方がまし――そういう判断だったのだろう」
ガルシュタインの拳が、膝の上できつく握りしめられていた。
「我らが醜い魔物へと変貌していくのも、この大地が腐り続けるのも……すべて、《虚無》の侵食を、千年間、代わりに受け続けてきたからだ」
◇ ◇ ◇
その言葉に、アズマリアの脳裏に、国境で出会った、あの苦しげにうずくまっていた魔物の姿がよぎった。
黒く爛れた体。歪んだ輪郭。あれは、ただの怪物などではなかった。世界の傷を、その身に引き受け続けてきた、かつての民の成れの果てだったのだ。
「――ひどい」
思わず漏れた声に、自分でも驚いた。悲しみとも、怒りともつかない感情が、胸の奥から込み上げてくる。
◇ ◇ ◇
「同情は、いらぬ」
ガルシュタインが、静かに、しかしはっきりと言った。
「これは、千年前に交わされた、神々と我らの祖先との間の、契約に等しいものだ。誰かを恨むための話ではない」
「でも……」
「そなたが憤ってくれる、その気持ちだけで、我らには十分すぎるほどの慰めだ」
その言葉に、アズマリアは、ただ静かに頷くことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所で、リザが、震える声で呟いた。
「じゃあ、あたしたちが今まで殺してきた魔物たちは……」
その先を、彼女は続けられなかった。剣を握る手が、微かに震えている。歴戦の誇りを持って戦い続けてきた彼女にとって、この真実は、あまりにも重い代償を伴うものだった。
◇ ◇ ◇
「――だが、まだ話は終わっていない」
ガルシュタインが、一同の動揺を見透かすように、静かに続けた。
「なぜ、歴代魔王が王国へ攻め入り続けてきたのか。その理由にこそ、そなたたちが本当に知るべき真実がある」
その言葉に、アズマリアの胸に、新たな緊張が走った。
語られるべき真実は、まだ、その半分にも達していなかった。




