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Ep19. 腐土の国境

王国と魔族領を隔てる国境――かつて《黒界結界》と呼ばれた防壁の跡は、見る影もなく崩れ落ちていた。


 足を踏み入れた瞬間、大気の質が変わったことに、アズマリアはすぐに気がついた。空は淀んだ紫色に染まり、太陽の光すら、どこか濁って感じられる。地面は黒ずみ、踏むたびにぬかるんだ泥のような感触が靴底に絡みついた。腐った果実にも似た、甘く饐えた匂いが、絶えずどこからか漂ってくる。時折、地の底から響くような、低い唸り声にも似た音が、大地そのものから聞こえてくる気がした。


 「――ここが、魔族領か」


 ヴィルヘルムが、険しい表情で周囲を見渡す。


   ◇ ◇ ◇


 行軍を続けるうち、一行は、朽ちた木々が立ち並ぶ荒野で、うずくまる一体の魔物と遭遇した。


 だが、それは、これまで戦ってきた凶暴な魔物とは、明らかに様子が違っていた。全身が黒く爛れ、体の輪郭すら歪んで見える。苦しげな呻き声を上げながら、その場から動くことすらできずにいる。


 「――攻撃するな」


 剣を構えかけた騎士を、ヴィルヘルムが制した。


 「様子がおかしい。あれは、戦意を持って向かってくる個体じゃない」


 アズマリアは、恐る恐るその魔物へと近づいた。近くで見ると、その姿は、もはや原型を留めていないほど、腐食が進んでいる。まるで、内側から、何かに蝕まれ続けているかのようだった。


 「――苦しい、ですよね」


 声をかけながら、アズマリアは両手をかざした。詠唱を紡ぐと、淡い光が魔物の体を包み込む。


   ◇ ◇ ◇


 次の瞬間、驚くべきことが起きた。


 黒く爛れていた体表が、見る間に癒えていく。歪んでいた輪郭が、本来の――おそらく獣に近い、穏やかな姿へと戻っていった。呻き声は、やがて安堵したような、静かな息遣いへと変わっていく。


 「――嘘、だろ」


 ヴィルヘルムが、目を見張った。


 「魔物の穢れを、浄化した、というのか」


 「分かりません。……ただ、この子は、傷ついていました。それを、癒やしただけです」


 アズマリアの言葉に、アロセールが静かに考え込んだ。


 「魔物、というよりは……何かに、蝕まれた生き物、という表現の方が近いのかもしれん」


 その考察が、この先で明かされる真実の、最初の欠片であることに、この時の一行は、まだ気づいていなかった。


   ◇ ◇ ◇


 行軍が進むにつれ、荒野の景色はさらに異様さを増していった。


 地面のあちこちに、黒い染みのような裂け目が走り、そこから淀んだ瘴気が立ち上っている。その瘴気に触れた植物は、みるみるうちに黒く枯れていった。


 「これが、千年続いてきた魔族領の姿、というわけか」


 リザが、忌々しげに呟いた。だが、その声には、これまでのような単純な敵意ではなく、何か、割り切れない戸惑いが滲んでいた。


 「戦ってきた相手が、本当にただの侵略者なら、こんな景色にはならない気がする」


 エレオノーラが、珍しく真剣な顔で呟く。真紅の髪を揺らしながら、彼女は瘴気の立ち上る裂け目を、じっと見つめていた。


   ◇ ◇ ◇


 夜営の焚き火を囲みながら、フェリクスから渡された解読の写しを、ヴィルヘルムが改めて広げた。


 「《世界の傷、都の地下深くに眠る》……そして、この魔族領そのものが、これほど蝕まれている」


 彼は、焚き火の炎に照らされた地図を指でなぞりながら続けた。


 「もしかすると、俺たちが『魔王軍の侵略』だと信じてきたものの正体は、まったく別の何かなのかもしれない」


 その言葉に、アズマリアの胸に、名状しがたい予感が広がっていく。王国で教えられてきた歴史、魔王軍という絶対的な脅威――そのすべてが、根底から覆ろうとしている気配があった。


   ◇ ◇ ◇


 翌朝、一行はついに、魔王城の威容を望む丘の上に辿り着いた。


 黒曜石のような漆黒の城壁が、淀んだ空を突き刺すようにそびえ立っている。その周囲には、これまで遭遇した個体と同じように、苦しげに蠢く魔物たちの姿が、無数に見て取れた。まるで、城そのものが、巨大な傷口の中心にあるかのような光景だった。


 「――行くぞ」


 ヴィルヘルムの号令に、一行は静かに、しかし確かな決意を胸に、丘を下り始めた。


   ◇ ◇ ◇


 城門の前に立ったとき、アズマリアは、これまで感じたことのない、奇妙な既視感に襲われた。


 まるで、この場所に来ることが、ずっと昔から決まっていたかのような。


 その理由を確かめる術は、まだない。だが、城門の奥、深い闇の向こうから、何かが――長い間、彼女の訪れを待ち続けていた何かが、静かに気配を強めているのを、アズマリアは確かに感じ取っていた。


 この扉の先に、この物語すべての答えが、待っている。

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