Ep17. 出陣の朝
辺境騎士団の練兵場には、夜明けと共に、いつになく張り詰めた空気が満ちていた。
整列した騎士たちの鎧が、朝日を受けて鈍く光る。踏み固められた土の匂いに、研ぎ澄まされたばかりの刃物特有の、冷たい金属の匂いが混じっていた。誰もが無言のまま、装備の最終確認を進めている。時折、馬の嘶きと、鎧が擦れる音だけが、その静けさを破っていた。
練兵場の中央に立つハロルドが、集まった騎士たちを見渡し、低く、しかしよく通る声で告げた。
「今日をもって、我らエルグラード辺境騎士団は、王都奪還のため出陣する」
その言葉に、居並ぶ騎士たちの間に、緊張と決意の入り混じった空気が広がった。
◇ ◇ ◇
治療院の裏手では、アズマリアが最後の準備に追われていた。傷薬の入った革袋、包帯の束、そして携帯用の浄化の護符――バルトロから貰った、あの護符も、しっかりと胸元に下げている。
「お姉ちゃん、本当に行っちゃうの……?」
セーラが、今にも泣き出しそうな顔で、アズマリアの袖を強く握りしめていた。
「ええ。でも、必ず戻ってきます」
「約束……だよ?」
「約束します」
アズマリアはセーラの頭を優しく撫でた。この土地に来てからの数十日で、この小さな手のぬくもりが、どれほど自分を支えてくれていたか、彼女は改めて実感していた。
◇ ◇ ◇
準備を終えたエレオノーラ、アロセール、リザの三人も、練兵場に姿を現していた。
《神癒》による治療を受けた三人の魔力は、以前の水準にまで、着実に回復しつつあった。
「――正直、驚いてる」
エレオノーラが、自分の掌に灯した小さな炎を見つめながら呟いた。以前の輝きを取り戻したその炎は、確かな熱を宿している。
「この短期間で、ここまで魔力が回復するなんて。……アズマリアの力、本当にとんでもないね」
「魔力循環の乱れそのものを、根本から修復しているんだろう。通常の回復では、決してあり得ない速度だ」
アロセールが、いつもの冷静な口調で分析する。だがその声には、隠しきれない敬意の色が滲んでいた。
リザは何も言わず、ただ拳を強く握りしめていた。彼女なりの決意の表れだった。
◇ ◇ ◇
「――全軍、出立の準備は整ったか」
馬に跨がったヴィルヘルムが、練兵場全体を見渡しながら声を張った。焦げ茶の髪を風になびかせ、鎧姿の彼は、これまで以上に領主としての威厳を纏っている。
「アズマリア」
名を呼ばれ、アズマリアは彼の馬の傍らへと歩み寄った。
「怖くはないか」
「……少しは。でも」
アズマリアは、まっすぐにヴィルヘルムを見上げた。
「今の私には、守りたいものが増えました。だから、大丈夫です」
その答えに、ヴィルヘルムは一瞬だけ、目を細めた。何かを堪えるような、それでいて確かな温かさを宿した表情だった。
「――終わったら」
「はい?」
「いや。……戻ってから、話す」
言いかけて呑み込まれたその言葉の続きを、アズマリアは知る由もなかった。だが、その一瞬の沈黙に込められた何かが、彼女の胸の奥に、小さな灯りを点していた。
◇ ◇ ◇
出立の直前、フェリクスが息を切らしながら駆けつけてきた。
「お待ちください、ヴィルヘルム様、アズマリア様……! 石片の解読が、また一つ進みました」
老司書は震える手で、写し取った文字の羅列を差し出す。
「《世界の傷、都の地下深くに眠る》……そう読めるのです。まだ確証はございませんが、もしこれが本当なら、王都で待ち受けているものは、我々が想像しているよりも、遥かに大きな何かかもしれません」
その一節に、アズマリアの背筋を、名状しがたい寒気が走った。魔王軍の脅威だけではない、もっと根深い何かが、王都の底に眠っている――そんな予感が、確信に近い重さを持って、胸に迫ってくる。
「肝に銘じておく」
ヴィルヘルムは短くそう答え、フェリクスに深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
辺境騎士団、そして力を取り戻しつつある三聖女を率い、アズマリアたちの一行は、王都へ向けて出立した。
見送る村人たちの中には、セーラの姿もあった。小さな手を、いつまでも大きく振り続けている。
「――お姉ちゃん、絶対に帰ってきてね!」
その声を背に受けながら、アズマリアは静かに前を見据えた。
王都では今、何が待ち受けているのか。魔王軍の脅威の先に、いったい何が隠されているのか。
その答えを確かめるための旅が、今、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
街道を進む隊列の先頭、朝靄の向こうに、遠く霞む王都の輪郭が、うっすらと見え始めていた。
その輪郭の下――誰も知らない王都の地下深くで、千年の時を超えて眠り続けていた何かが、静かに、しかし確実に、目覚めの気配を強め始めていた。




