Ep16. 跪く王家
夜明け前の辺境エルグラード、村の入口に続く街道に、疲弊しきった一団の姿があった。
土埃にまみれた馬車の列、その後ろに続く、ぼろぼろの鎧を纏った兵士たち。誰もが、まともに歩くことすら困難な様子だった。夜露に濡れた草の匂いが冷たく漂う中、馬たちの荒い息遣いと、車輪の軋む音だけが、静まり返った街道に響いている。東の空がわずかに白み始め、薄闇の中に、疲れ果てた人々の輪郭が、少しずつ浮かび上がってきた。
知らせを受けたアズマリアが村の入口に駆けつけたとき、そこにいたのは、かつて自分を追放した人々の、変わり果てた姿だった。
◇ ◇ ◇
国王グランツは、豪奢だったはずの外套を血と泥で汚し、杖にすがるようにして立っていた。王妃の顔は蒼白で、目の下には深い隈が刻まれている。かつて玉座から冷淡な言葉を告げていたグレゴリウスは、白髪を乱し、老いた体をふらつかせながら、辛うじて立っていた。
その後ろに続くのは、エレオノーラ、アロセール、リザ――アズマリアが心を寄せていた三人の聖女たちだった。全身に痛々しい傷を負い、魔力を使い果たしたその姿は、かつての誇り高い輝きを、もはやほとんど残していない。
「アズマリア……」
真っ先に声を上げたのは、エレオノーラだった。真紅の髪は乱れ、いつもの明るい笑顔はどこにもなかった。ただ、縋るような目だけが、アズマリアをまっすぐに見つめている。
「よかった……無事、だったのね」
◇ ◇ ◇
王グランツは、アズマリアの前まで歩み寄ると、驚くべきことに、その場に膝をついた。
「陛下……!?」
周囲から悲鳴じみたどよめきが上がる。一国の王が、追放した元聖女の前に跪くなど、あってはならない光景だった。
「我々が、間違っていた」
その声は、これまでの威厳など欠片も残さない、震えたものだった。
「魔王軍の総攻撃で、王都は陥落寸前だ。……結界は崩れ、聖女たちの力は半減し、もはや、王国だけでは立ち行かぬ」
グレゴリウスも、王の隣で深く頭を垂れた。
「聖女位階の剥奪、婚約破棄――すべては、我々の傲慢が招いた過ちでした。どうか、王国を……いや、そこに生きる、罪なき民を、お救いください」
◇ ◇ ◇
アズマリアは、跪く王と大神官を、静かに見下ろしていた。
これまで何度も夢想したことのある光景だった。自分を切り捨てた者たちが、頭を垂れて許しを乞う。だが、実際にその瞬間を前にして、アズマリアの胸に去来したのは、想像していたような、痛快な感情ではなかった。
ただ、深い、静かな疲労感だけがあった。
「顔を、お上げください」
「アズマリア……」
「私は」
言葉を選びながら、アズマリアはゆっくりと続けた。
「王都には戻りません」
その一言に、跪いていたグランツの肩が、目に見えて震えた。周囲の兵士たちの間にも、絶望の色が広がっていく。
◇ ◇ ◇
「――でも」
その先の言葉を、アズマリアは静かに、しかしはっきりと紡いだ。
「苦しんでいる人たちは、助けます」
その言葉の意味を、その場にいる誰もが、すぐには理解できなかった。エレオノーラが、震える声で尋ねる。
「それは……どういう」
「私は、あなたたちを恨んではいません。……いいえ、正確には、恨む気持ちがまったくないと言えば、嘘になります。でも」
アズマリアは、王でも大神官でもなく、傷ついたエレオノーラたちへと視線を向けた。
「私が救いたいのは、王国という制度でも、私を追放した方々への忠誠でもありません。ただ、そこに生きている、何の罪もない人々です。……あなたたちも、含めて」
その言葉には、命じられて動く聖女の従順さも、恨みに凝り固まった拒絶もなかった。ただ、彼女自身の意思で選び取った、静かな決意だけがあった。
◇ ◇ ◇
傍らで様子を見守っていたヴィルヘルムが、そっとアズマリアの肩に触れた。
「――それで、いいのか」
「はい。……これは、王国のためでも、あの人たちのためだけでもありません。私自身が、そうしたいと思ったからです」
その答えに、ヴィルヘルムは小さく頷いた。かつて「元聖女だろうが何だろうが関係ない」と告げてくれたあの日から、彼はずっと、アズマリアの意志を尊重し続けてくれていた。
◇ ◇ ◇
その日から、辺境エルグラードは、慌ただしい様相を呈することになった。
傷ついた兵士たちのための臨時治療院が急遽設けられ、アズマリアは休む間もなく治療にあたった。魔力を使い果たした聖女たちにも、《神癒》の光が注がれていく。
「――これは」
初めてその光を浴びたアロセールが、驚いたように自分の手のひらを見つめた。かすかに帯電していた掌に、これまでよりずっと確かな力の気配が戻り始めている。
「魔力そのものを癒やしている、というのか」
「詳しいことは、私にも分かりません。……でも、傷ついているものなら、何でも」
その言葉に、アロセールは何かを深く考え込むような顔をした。
◇ ◇ ◇
夜、臨時の宿所となった館の一室で、エレオノーラがぽつりと呟いた。
「ねえ、アズマリア。……あんたって、本当に強いよね」
「強い、でしょうか」
「王都で、あれだけ酷い扱いを受けて。それでも、恨みだけに囚われないなんて。……あたしなら、絶対に無理だった」
その言葉に、アズマリアは静かに首を振った。
「囚われなかったわけでは、ありません。ただ、この辺境で、恨み以外の何かを見つけることができただけです」
窓の外に広がる、黄金に色づいた麦畑を見つめながら、アズマリアは小さく微笑んだ。
◇ ◇ ◇
だが、その平穏な夜も、長くは続かなかった。
魔王軍の侵攻は、王都を陥落させただけでは止まらなかった。追撃の手は、王族たちが逃れたこの辺境の地にも、確実に迫りつつあった。
やがて訪れる、この物語最大の戦いの足音が、すでに、地の底から響き始めていた。




