EP144.名の壁
洞の闇が、赤と白の二つの光で裂けていた。
根の壁を伝って、焦げた匂いが流れ込んでくる。炎が根を舐めるときの青臭い煙と、冷えた鉄に似た鈴の気配。耳には少女の荒い息遣いが響き、足の裏には全力で駆ける靴音が根の隧道を震わせて伝わった。
先頭を走るのはエレオノーラだった。癖のある赤い髪は乱れ、法衣の裾は泥と煤にまみれている。掌に灯した炎が頼りなく揺れていた。片腕にしっかりと抱えられた少女は、ぐったりと顔を伏せている。
「アズマリア! 出口は、まだなの!」
「もう少しです! 声を聞いてください!」
アズマリアは洞の入口で叫んだ。背後では、呼び継ぎの輪の人々が声を張り上げていた。
「エレオノーラ!」
「エレオノーラ様!」
「こっちです!」
その声が根の隧道に染み渡り、赤い髪の少女の肩がびくりと揺れた。
「……聞こえる。私の名前を、呼んでくれてる」
震える声が洞に反響した。
◇ ◇ ◇
白い光が、すぐ背後まで迫っていた。
それは人の形をしていた。白面に緋色の外套。手に提げた青銅の鈴が、低く、ゆっくりと揺れている。けれど足音がない。影のように、根の壁の上を滑るように進んでくる。
(本体ではない)
アズマリアは根印に意識を集めた。糸の流れが、あの人影からは細く弱くしか感じられない。
「鈴影です」
洞の脇から、白面の青年が低く言った。
「鈴を鳴らした者の、影の写しです。師匠は本体を王都に残して、影だけを飛ばしている。書庫で鈴の音に触れた者の名の糸を、辿って」
「エレオノーラの糸を」
「ええ。その糸は、根の道の端から端まで繋がっていましたから。影は、それを伝って追ってきたんです」
「倒す方法は」
ヴィルヘルムが剣を抜きながら問うた。青年は首を振った。
「斬れません。名の糸で作られた影です。名の力でしか、払えない」
「名の力」
アズマリアは息を整えた。背後で響き続ける呼び声。千近い領民が、一人ずつ、順番に、エレオノーラの名を呼び継ぎ続けている。
(これは)
糸だ。呼び声が編み上げた、太い名の綱だ。
「皆さん、そのまま続けてください!」
彼女は叫んだ。
「声を絶やさないで! エレオノーラを呼びながら、洞の入口を見て!」
◇ ◇ ◇
エレオノーラが洞の口に転がり出た。
その瞬間、背後の闇から鈴影が跳んだ。白面が少女の背に迫り、鈴が高く鳴る。
ちりん。
名の糸が、ぷつりと切れる音がした。エレオノーラの顔が青ざめ、足がもつれる。
「エレオノーラ!」
アズマリアが飛び出し、少女の腕を掴んだ。その胸の根印が眩く灯る。
「エレオノーラ! エレオノーラ!」
叫びに呼応して、洞を取り囲む人々の声が一斉に膨れ上がった。
「エレオノーラ!」
千の声が重なり、見えない壁となって洞の入口を満たした。名の糸が何重にも織られ、白い光を押し返す。鈴影の白面が揺らぎ、外套の裾がちりぢりに解けていく。
「これが《名の壁》ですぞ!」
フェリクスが杖を高く掲げた。
「呼び継ぎの副産物にして、最も古い守りの術。名を呼ぶ声が集まれば、名を奪う力は、その場に入れぬ!」
鈴影が低く呻いた。人の声とも、鈴の音ともつかない響き。
『……坊や……』
青年が、息を呑んだ。
◇ ◇ ◇
鈴影の白面が、ゆっくりと青年の方を向いた。
目も口もない仮面の奥から、掠れた声が滲み出す。年老いた男の声だった。
『まだ、そこにおったのか。お前の板は、あとどれほど保つ』
「師匠」
青年が一歩前に出た。両手を握り締め、震える声で言った。
「師匠は、何をなさっているんですか。どうして、みんなの名を」
『決まっておろう』
鈴影は静かに笑った。
『眠り人の涙を止めるのだ。千二百三十八の名を捧げれば、あの方は泣き止む。南の扉も、北の扉も、もう要らぬ。皆、苦しまずに済む』
洞の中に、息を呑む気配が広がった。
「千二百三十八」
ヴィルヘルムが低く呟く。
「錨の綱の札と、同じ数」
『ほう。察しがいいな、辺境伯』
鈴影の声には、かすかな満足があった。
『あの綱は、実によくできていた。一人の名も欠けず、一つの縁で結ばれた千余の名。あれを捧げれば、眠り人は満たされる。我が一座は、そのために二十年、名を集めてきた』
「師匠、それは違う!」
青年の叫びが、洞に響いた。
「名を捧げれば、その人は消えるんです。僕は知ってる。僕が、そうだったから!」
『消えて、何が悪い』
老人の声は、どこまでも穏やかだった。
『誰かが泣き止むためなら、名のひとつやふたつ、安いものではないか』
◇ ◇ ◇
アズマリアは、一歩前に進み出た。
「それは、違います」
静かな声だった。けれど洞の壁に反響し、鈴影の動きがぴたりと止まった。
「名は、安いものではありません。誰かが呼んでくれる限り、その人はそこにいる。あなたが捧げようとしているのは、千余りの人生です」
『聖女よ』
鈴影の白面が、彼女を向いた。
『お前もまた、渡るつもりなのだろう。名を預けて、扉の向こうへ。それは、名を捧げるのと何が違う』
「違います」
アズマリアは根印に手を当てた。
「私は、帰ってくるために名を預けるのです」
『愚かな』
鈴影が静かに呟いた。
『新月の夜、すべてが分かる。楽しみにしておれ』
白面の影が、ふっと霧のように解けた。鈴が最後にひとつ鳴り、根の床にからりと落ちる。
残されたのは、小さな青銅の鈴の舌と、一枚の白い札だけだった。
札には、墨でひと言。
《あと三百》
洞の外で、風が止んだ。誰も、口を開けなかった。
新月まで、あと五日。




