EP143.呼び継ぎの夜
根の道の出口は、根の間のさらに奥の、闇の底にあった。
石畳が途切れた先に、人ひとりがやっと通れるほどの洞が口を開けている。内壁は太い根が編み込まれた網のように覆い、その隙間から冷たい風が低く唸って吹き出していた。土と古い樹液の濃い匂いに、遠い水音が混じる。足の裏には根のぬめりが感じられ、肌に触れる空気はしっとりと重かった。
洞の手前に、いくつもの角灯が置かれていた。
その光の輪の中で、人々が輪になって座っている。旅団の治療師たち。館の使用人。街から駆けつけた領民。皆が一様に口を結び、洞の奥を見つめている。
アズマリアは洞の正面に立っていた。外套の襟を固く合わせ、白銀の髪を一本に編み込んでいる。傍らにはヴィルヘルムが、剣を佩いて控えていた。
「始めましょう」
彼女は静かに言った。
水鏡が割れてから、わずか半刻のことだった。泉の水面から小さな炎の鳥が飛び出し、アズマリアの掌に降りたのだ。エレオノーラの炎だった。鳥は嘴を開き、友の声で叫んだ。
『逃げたわ! ロザリンドを連れて、根の道に入る! お願い、私の名前を呼んで!』
炎の鳥は羽ばたきを残して消えた。それから、館中に呼びかけて人を集め、洞の前に呼び手の輪を作るまでに、一刻とかからなかった。
新月まで、あと六日。
◇ ◇ ◇
「《呼び継ぎ》ですぞ」
フェリクスが皆の前に進み出て、杖で床を叩いた。
「根の道を歩く者の名を、出口側の者が途切れなく呼ぶ。一人が呼び終える前に、次の者が声を継ぐ。これを絶やさなければ、道を行く者の名は薄れませぬ」
「どれくらい、続けるのですか」
若い治療師が尋ねた。
「エレオノーラ殿が根の道を通り抜けるまで。聖樹の根を伝えば、王都から一昼夜と少しの道のりのはず。その間、一刻も途切れさせてはなりませぬ」
「一昼夜以上」
「順番に三人一組。一刻ごとに交代しますぞ。眠る者は眠り、起きる者は呼ぶ」
誰からともなく、頷きが広がった。
最初の三人が洞の前に進み出る。深く息を吸い、声を揃えた。
「エレオノーラ」
低く、柔らかな呼び声が洞の奥へ吸い込まれていく。根の壁がかすかに震え、風の唸りが一瞬、静まった。
「エレオノーラ」
「エレオノーラ様」
その声を聞きながら、アズマリアは根印に手を当てた。胸の奥で、遠い糸が細く震えている。
(届いている)
その糸は、確かに王都の方角へ伸びていた。
◇ ◇ ◇
交代の合間に、白面の青年が、洞の脇に座っていた。
借り物の上着の膝に、あの白い仮面が置かれている。彼は深く沈んだ目で、洞の奥をじっと見つめていた。
「眠らないのですか」
アズマリアが隣に腰を下ろすと、青年は小さく首を振った。
「眠れないんです。さっきの鈴の音が、耳から離れなくて」
「鈴の音」
「水鏡越しに聞こえた、あの音です。僕の鈴とは、違いました」
彼は膝の仮面を指でなぞった。
「僕の鈴は、少し高い音がします。割れた銅の音。でも、さっきの音は、低かった。深い、鐘のような余韻のある音」
「聞き覚えが」
「あります」
青年の声が、かすかに震えた。
「あれは、僕の師匠の鈴です」
◇ ◇ ◇
翌朝、アズマリアは一座の幌馬車を訪ねた。
オルフェは楽屋の奥で、古い衣装箱を開けていた。黄ばんだ写し絵が何枚も束になって出てきて、床に広げられている。老座長は眼鏡を押し上げ、一枚の絵を手に取った。
「先代の座長の絵姿です。これが一座の者が皆、拝んでおった方」
アズマリアは絵を覗き込んだ。
白い髭を蓄えた老人が、緋色の外套を羽織り、白面を脇に抱えて微笑んでいる。穏やかな、人の良さそうな顔だった。
「この方が、白面の役者を拾った」
「ええ。街道の倒れた子供を、馬車に乗せて連れ帰ったそうです。その後、役者として育てた。私にとっては、芝居の師匠でもありました」
「お名前は」
オルフェは、口を開きかけたまま、固まった。
「……名前は」
皺の刻まれた顔に、見る見る動揺が広がっていく。
「先代の座長の、名前は。私は、毎日呼んでいたのに。師匠、と呼んでいたから、本当の名前を口にした覚えが、少ない。でも、たしか、一座の者は皆」
老座長の手が震え、絵姿がはらりと床に落ちた。
「思い出せません。どうして」
絵姿の裏には、名を記すはずの欄があった。そこには、何も書かれていなかった。墨をこそげ落としたように、白く抜けていた。
「先代は、五年前に一座を退いて、王都の神殿の記録庫に勤めると言って去りました。便りも、それきり」
アズマリアは息を呑んだ。
王都の神殿の記録庫。八十七の名が消え、エレオノーラが襲われた場所。
(鈴の主は、そこにいる)
◇ ◇ ◇
その夜、洞の前の呼び継ぎは、二度目の夜を迎えていた。
角灯の火が揺れ、人々の声は枯れ始めている。それでも交代は途切れない。ヴィルヘルムが三度目の番を終えて戻ってきた時、アズマリアは根印を押さえて洞の奥を見つめていた。
「感じるか」
「ええ。近づいています」
糸が、強く、速く、震えていた。洞の奥から、風の唸りに混じって、かすかな足音が聞こえる。
「エレオノーラ!」
若い治療師が叫んだ。
闇の奥に、赤い光が灯った。炎のような、揺れる赤。
その光の中に、癖のある赤い髪の少女が走ってくるのが見えた。法衣の裾を泥に汚し、片腕に、もう一人の女性を抱えている。
「アズマリア!」
叫び声が洞に反響した。
けれどその背後に、もう一つの光があった。
白い、冷たい光。それが少女たちを追うように、ゆらりと闇の中を進んでくる。
鈴の音が、低く、ゆっくりと響いた。
新月まで、あと五日。




