EP142.水鏡の向こうの大神官
館の奥の泉水の間は、午後の光を青く湛えていた。
円形の広間の中央には丸い石の泉があり、澄んだ水が静かに満ちている。天井の高窓から斜めに射す陽が水面に揺れ、壁に波紋の影を踊らせていた。ひんやりとした空気には湿った石と水草の匂いが混じり、泉の縁をなぞると指先に冷たさが染みる。どこかで雫が落ち、澄んだ音が長く尾を引いた。
泉の傍らに、アズマリアが立っていた。
傍らにはヴィルヘルムとフェリクス。足元では白煌が泉の縁に顎を乗せ、フィーが水面すれすれを光の粒になって舞っている。
「繋がりましたぞ」
フェリクスが泉の水面に杖の先を浸した。波紋がふっと静まり、鏡のように澄んだ面に、別の景色が映し出された。
薄暗い石の書庫。ずらりと並んだ棚。燭台の灯り。
その中央に、赤みを帯びた髪の少女が立っていた。
◇ ◇ ◇
「アズマリア!」
水鏡の向こうで、エレオノーラが振り向いた。
大神官の白い法衣を羽織り、癖のある赤い髪を無造作に束ねている。いつも唇に絶やさない笑みが、今は引きつっていた。目の下にはうっすらと隈が浮かび、法衣の袖には墨の染みがついている。
「よかった、やっと繋がった。三度試したのよ」
「お待たせしました。エレオノーラ、手紙を読みました。状況を聞かせてください」
「ええ。見て」
エレオノーラは棚の一冊を抜き取り、水鏡の方に掲げた。分厚い革装の名簿だった。頁をめくると、各頁の上端に歴代聖女の名が連なっている。
その何ヶ所かが、墨をこすり落としたように白く抜けていた。
「消えた名は八十七。歴代の中でも、特に古い聖女から順に消えていってる。最初は誰も気づかなかった。誰も、そんな人がいたことを覚えていないんだもの」
「記録庫の担当の方は」
「それがね」
エレオノーラは苦い笑みを浮かべた。
その背後から、若い神官が顔を覗かせた。
「大神官様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
神官は盆を置き、それからふと眉をひそめて、エレオノーラの顔をまじまじと見た。
「失礼ですが、大神官様。今朝からずっと気になっていて。お名前は、何と仰いましたか」
書庫が、凍りついたように静まった。
◇ ◇ ◇
エレオノーラは、笑顔を貼りつけたまま神官に頷いた。
「いいのよ。気にしないで。下がってちょうだい」
「はい。失礼しました」
若い神官は不思議そうな顔のまま退室していった。扉が閉まると、エレオノーラの肩がわずかに落ちた。
「見たでしょう」
彼女は水鏡に向き直った。
「今朝から、みんなが私の名前を思い出せないの。職位は分かる。顔も分かる。でも、名前だけが出てこない。私自身は、ちゃんと覚えてるのよ。エレオノーラ。ほら」
「聞こえています」
アズマリアは泉の縁に膝をつき、水面に手を差し伸べた。
「エレオノーラ。エレオノーラ」
その名を、はっきりと呼んだ。胸の根印が熱を帯びる。水鏡の向こうの少女が、はっとして目を見開いた。
「……聞こえた。今、すごくはっきり」
「根印を持つ者の声は、名欠けの影響を受けません。私が呼べば、あなたの名は世界に残ります」
「ありがたいけど」
エレオノーラは苦笑した。
「あなた、ずっと私を呼び続けるわけにはいかないでしょう。新月まであと六日。渡る準備もあるのに」
「ええ。ですから、こちらへ来てください」
アズマリアはまっすぐ告げた。
「根の道を使って。王都の聖樹の根から、エルグラードの根の間まで。一刻を争います」
◇ ◇ ◇
「根の道は、危険ですぞ」
フェリクスが杖を握り締めた。
「聖樹の根の中を通る隧道。歩く者の名が薄れていく。名の糸を持たぬ者が通れば、道の途中で呑まれかねませぬ」
「だから私が通る意味があるのよ」
エレオノーラは法衣の袖をまくった。
「名を失いかけてる大神官が、一番の被験者でしょう。それに、ブランシュ伯の副官のロザリンドも連れていく。彼女は私の名を呼べる、数少ない人間だから」
「ロザリンドは無事ですか」
「ええ。彼女は今、神殿の控えの間にいるわ。あとで呼びに行く」
エレオノーラは水鏡越しに、片目をつむってみせた。
「心配しないで。私、案外しぶといのよ」
その軽い口ぶりの奥に、押し殺した恐怖が透けて見えた。アズマリアは唇を噛む。
「必ず、迎えに行きます。根の道の出口で待っています」
「ええ、待ってる」
エレオノーラが頷いた時、水鏡の画面が突然、ぐらりと揺れた。
◇ ◇ ◇
泉の水面に細かな波紋が走った。
「何事ですぞ」
フェリクスが杖を泉に突き立てる。しかし波紋は止まらない。水鏡の向こうの書庫が、ぐにゃりと歪んだ。
エレオノーラが背後を振り返る。
書庫の奥、本棚の隙間の暗がり。
そこに、白い影が立っていた。
目も口もないのっぺりとした白面。緋色の外套。手には小さな青銅の鈴を提げている。
(白面の、もう一人)
鈴が、静かに揺れた。
ちりん。
泉の水が、ぱしゃりと跳ねる。エレオノーラの顔から血の気が引き、書庫の灯りが一斉に消えた。
「エレオノーラ!」
アズマリアが叫んだ。水鏡が白く光り、次の瞬間、澄んだ水面がぱきりと割れるように曇った。
あとに残ったのは、波紋の消えた、ただの泉だった。
誰も動けなかった。ヴィルヘルムが低く呟く。
「鈴の主は、一人じゃなかったのか」
新月まで、あと六日。




