EP141.七つの板
館の大食堂には、夜明けの薄い光が満ちていた。
長卓の上に湯気の立つ麦粥と焼きたてのパン、蜂蜜の壺が並んでいる。温かな小麦の香りと、煮込んだ根菜の甘い匂いが部屋を満たし、窓の外では朝一番の小鳥が梢を渡っていた。木の床は踏むとかすかに軋み、暖炉の薪がぱちりと音を立てる。
その卓の端に、白面の青年が座っていた。
緋色の外套を脱ぎ、借り物の簡素な上着を羽織っている。目の前の粥には、まだ手がつけられていなかった。向かいでは、座長のオルフェが眼鏡を曇らせて、青年の顔をじっと見つめている。
「食べなさい。何日もろくに食べていないのだろう」
「……はい」
青年はおずおずと匙を取った。一口、口に運んで、小さく目を見開く。
「あったかい」
「当たり前だ」
老座長は洟をすすった。その様子を、少し離れた席からアズマリアが見守っていた。
新月まで、あと六日。
◇ ◇ ◇
朝食の後、主だった顔が評議の間に集まった。
卓を囲むのはアズマリア、ヴィルヘルム、ハロルド、フェリクス。末席にはセーラとオルフェ。そして椅子に深く腰かけた白面の青年。足元では白煌が丸くなり、フィーが窓辺で光の粒を転がしている。
「渡し板について、整理しますぞ」
フェリクスが杖で床を叩き、羊皮紙を広げた。
「名を渡す者は、己の名を扉の敷居に敷く。渡る者が通る間、その名が道となり、渡る者の名を預かる。これが《渡し板》。古い術にて、前例は魔族の聖典と名なし劇の台本にしか残っておらぬ」
「その名は、戻るのか」
ヴィルヘルムが問うた。青年が静かに答える。
「戻る場合もあります。渡る者が帰ってきて、こちら側で板の名を呼ぶ人々が十分にいれば」
「僕の場合は、誰も呼べなかったから戻らなかった」
「そうです。だから僕は、名を失ったまま十年を過ごした」
彼は淡々と言った。その横顔には諦めの色が濃かった。
アズマリアは胸の奥が痛むのを感じた。
「板の役目を負う者は、板に名を敷いている間、世界から名が消える。その間、呼ばれても気づかれず、記憶からも薄れる」
「危険は」
「帰ってこなければ、板の者は永遠に名を失います」
室内の空気が張り詰めた。
◇ ◇ ◇
「俺がやる」
最初に声を上げたのはヴィルヘルムだった。
「あんたが渡るなら、板は俺だ。他の誰にもやらせねえ」
「駄目です」
アズマリアは即座に首を横に振った。
「あなたの名が失われたら、エリアーナとノアハルトが」
「あんたが帰ってこなかったら、どのみち同じだろ」
「ヴィルヘルム」
「違うのか」
彼の声は低く、揺らぎがなかった。アズマリアは唇を噛んだ。その時、ハロルドが静かに口を開いた。
「一人に背負わせるのは、愚策かと」
全員が副官を見た。ハロルドは短く刈った髪に手をやり、普段通りの硬い表情で続けた。
「錨は千人で綱を撚る。板も同じ理屈で、複数人に分けられるのでは」
フェリクスの目が輝いた。
「それは……そうですぞ。《七つの板》という形があったはず」
老書記は羊皮紙の端を探り、一節を指した。
「板の名を七つに割り、七人で担う。一人が失う名は七分の一。誰も完全には消えぬ。ただし七人は、渡る者との縁が極めて深くなければならぬ」
「七人」
アズマリアが繰り返した。
「名を渡す者を、七人に」
◇ ◇ ◇
「俺と、ハロルドと、フェリクス」
ヴィルヘルムが指を折った。
「あと四人」
「わたしも」
セーラが手を挙げた。全員の視線が少女に集まる。
「だめです、セーラ」
アズマリアが言うより早く、セーラは首を振った。
「聞いて。わたし、名前を守ってもらったでしょ。あの人が、ずっと預かっててくれたから、今ここにいるの。だから今度は、わたしが誰かの名前を預かる番だと思うの」
少女の瞳は潤んでいたが、揺れてはいなかった。
「お姉ちゃんは、わたしの居場所を作ってくれた。だから、お願い」
アズマリアは息を吸い、そっと目を閉じた。
(この子は、もう守られるだけの子ではない)
「……分かりました」
彼女は目を開けた。
「ただし条件があります。七人は全員、必ず帰ってこられる形を整える。名を失う危険は、一人も負わせません。そのための準備を、六日で整えます」
「五人目は」
ハロルドが尋ねた。
「エレオノーラと、ブランシュ」
アズマリアが答えた。
「二人にも声をかけます。王都から駆けつけてもらえるかどうか」
その時、窓辺に一羽の鳩が降り立った。
◇ ◇ ◇
ハロルドが窓を開け、鳩の足から小さな筒を取り外した。
封蝋に刻まれた紋章を見て、彼の表情が変わる。
「王都の大神官庁からです。エレオノーラ様の署名で」
アズマリアは筒を受け取り、中の羊皮紙を広げた。
見慣れた丸みを帯びた筆跡が、いつになく乱れていた。
『アズマリア。至急伝える。三日前から、王都の神殿の記録庫で、歴代の聖女の名簿から名前が一人ずつ消えている。誰も気づかなかった。今朝、私が点検して初めて分かった。消えた名は、全部で八十七。そして、先ほど』
文章は、そこで途切れていた。
その下に、走り書きのような一文があった。
『私の名前が、書いてあったはずの頁が、白紙になっている』
羊皮紙を握るアズマリアの手が、小さく震えた。
窓の外で、鳩が一声、鋭く鳴いて飛び立っていった。
新月まで、あと六日。




