EP140.名を渡す者
真夜中の根の間は、水底のように青く沈んでいた。
壁を這う聖樹の根が苔の灯りを抱き、ゆるやかに明滅している。湿った土と樹液の甘い匂いが濃く、石畳に落ちる水滴の音が、遠い鐘のように一定の間隔で響いた。足の裏には冷たさが染みる。その冷たさの奥で、根の脈動が静かに歌っていた。
その歌に、人の声が重なっていた。
低い、掠れた、男の声だった。言葉にならない旋律をなぞるように、ゆっくりと。
アズマリアは扉の陰で足を止めた。寝間着の上に外套を引っかけただけの姿で、白銀の髪を下ろしている。傍らのヴィルヘルムが剣の柄に手を添え、足元の白煌が低く喉を鳴らした。
「セーラが、ここに」
アズマリアは小声で言った。館の廊下で、夢遊の足取りで歩いていく少女を見つけたのは、つい先ほどのことだ。目を閉じたまま、小さな声で歌いながら、地下へ降りていった。
根の間の中央に、セーラが立っていた。
その前に、ひとりの青年が座っていた。
◇ ◇ ◇
青年は、根の上に静かに腰を下ろしていた。
二十歳をいくつか過ぎたころだろう。痩せた肩に擦り切れた緋色の外套。化粧を落とした素顔は、驚くほど平凡で、どこにでもいる旅芸人の青年の顔だった。ただ、その目だけが、長い疲労と悔恨に濁っていた。
傍らには、一枚の白い仮面が置かれている。
彼は歌いながら、夢遊のセーラの手を取り、ゆっくりと撫でていた。
「大丈夫。もう少しだけ」
優しい声だった。
「もうすぐ返すよ。待たせて、ごめんね」
その瞬間、ヴィルヘルムが踏み込んだ。剣が閃き、青年の喉元に切っ先が止まる。
「動くな」
「ヴィルヘルム!」
アズマリアの制止より早く、青年は静かに両手を挙げた。
「分かっています。逃げも隠れもしません。ここで、あなた方を待っていました」
◇ ◇ ◇
「あなたが、白面の役者ですね」
アズマリアは剣の前に進み出た。青年は、赤い瞳に射抜かれて目を伏せる。
「ええ。名前は、もうありません。座長が名簿にも書けなかったのは、そのせいです」
「名を捧げたのですか」
「はい」
彼は淡く笑った。
「十年前、南の島で。僕は子供でした。一座に拾われて間もないころ、巡業の途中で、島の灯台の鐘が鳴った夜に、扉の隙間から向こうの世界へ落ちたんです」
アズマリアの胸の奥で、根印が脈打つ。
「戻るために、名を渡しました。向こうの世界の子供たちが、必死に縋ってきたので。『ここに残ってくれ』と。名を渡せば帰れると、誰かが教えてくれた。それで、僕の名は、向こうの世界の道の板になりました」
「道の板」
「《渡し板》です。名なし劇の三つの役の、最後の一つ。名を渡す者は、己の名を扉の敷居に敷いて、向こうとこちらを繋ぐ板になる。僕が板になっている間は、扉は細い通い路のまま、安定していました」
ヴィルヘルムの剣が、わずかに下がった。
「毎年、島に通っていたのは」
「板が、擦り減るからです」
青年は目を閉じた。
「泣き声が強くなるたびに、僕の名は削れていく。だから毎年、鐘の前で唱えて、名の糸を補った。他の子供たちの名を少しずつ預かって、継ぎ足して。それが、鈴の中の糸です」
◇ ◇ ◇
セーラが、ゆっくりと目を開けた。
夢から覚めたような、焦点の合わない瞳。目の前の青年を見て、小さく首を傾げる。
「……お兄さんの、歌」
「起こしてしまったね」
青年は懐から小さな布の包みを取り出した。包みの中には、栗色の細い糸が一本。
「これは、君のものだ」
「わたしの」
「十年近く前、雨の街道で、君は倒れていた。名前が、薄れかけていた。何も食べていない小さな子で、自分の名を呼ぶ声が、誰にも届かないまま消えかけていた」
セーラの呼吸が止まった。
「僕は何もできなかった。ただ、名の糸を預かって、結んだ。一座の誰かに引き取ってもらうまでの間、薄れないように。でも、君を引き取った人は、あの夜に別の場所へ運ばれてしまって、僕の手元に糸だけが残った」
セーラの目から、ぽろぽろと涙が零れた。
「わたしの名前を、守ってくれてたの」
「守れたのは、少しだけだ。ずっと預かりっぱなしで、ごめん」
青年は糸を差し出した。セーラが震える手でそれを受け取ると、栗色の糸はふわりとほどけて、彼女の胸に吸い込まれていった。
「あっ」
セーラが胸に手を当てた。
「あったかい」
その場の全員が、息を詰めてその光景を見ていた。
◇ ◇ ◇
青年は、深く頭を下げた。
「聖女様。お願いがあります」
「聞きます」
アズマリアは静かに頷いた。青年の頬から、一筋の涙が落ちた。
「僕の板は、もう薄いんです。あと数日で、完全に擦り切れる。そうなれば、南の扉は、一気に開きます」
「南の扉」
「ええ。新月の夜に、中央と南の二ヶ所で。中央の扉は、錨と鍵で保てるでしょう。でも、南は——僕が最後の支えでした」
彼は両手を膝の上に揃えた。
「そして、もう一つ」
青年の濁った瞳が、まっすぐアズマリアを見据えた。
「あなたが、向こうの世界へ渡るなら、僕と同じ役を、誰かが務めなければなりません」
「名を渡す者を」
「はい。扉の敷居に名を敷き、あなたが渡るための道になる者を。そして、その者は——」
青年は言葉を切り、ゆっくりと息を吸った。
「あなたの名を、預かることになる」
根の間に、長い沈黙が落ちた。
苔の灯りが揺れ、水滴の音だけが響く。アズマリアは、胸の根印にそっと手を当てた。
ヴィルヘルムが、掠れた声で言った。
「それは、あんたの名を、他人に渡すってことか」
「そうなります」
青年は静かに答えた。
「ですが、それが唯一の方法です。名を持ったまま渡れば、向こうの世界に呑まれる。名を預けて渡れば、帰る道が残る」
アズマリアは、青年の濁った瞳と、その傍らに置かれた白い仮面を見比べた。
(名を預ける)
千二百三十七人が結んだ錨の綱。エリアーナと結んだ指の糸。ノアハルトの息。
(それでも、私は)
彼女は顔を上げた。
新月まで、あと七日。




