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EP139.南へ向かう朝

館の前庭には、旅立ちの朝の冷気が満ちていた。


 石畳の隙間に降りた霜が、昇りはじめた陽にきらきらと溶けていく。馬の吐く白い息、革の鞍が軋む音、荷を括る縄の乾いた匂い。庭の端では栗の木が最後の葉を落とし、風に乗った一枚がアズマリアの肩に触れて、地面に滑り落ちた。


 厩舎の前に二頭の馬と、黒塗りの旅馬車が一台。馬車の脇では、旅装のリザが鞍帯を確かめている。くすんだ金髪の三つ編みは相変わらず無造作で、腰には一本の短い杖。その隣に立つガルシュタインは、深い紫の外套を羽織り、大柄な背中に魔族の紋章を縫い取った長い旅荷を担いでいた。


 新月まで、あと七日。


 「船と馬を乗り継げば、三日で港に着く。そこからミナモ島までは魔族の高速船を出す。島に着くのは四日目の夕刻になるだろう」


 ガルシュタインが淡々と言った。


 「すると、島で準備に使える日は、三日」


 「三日で足りるとは言えぬが、やるしかない」


 リザが鼻を鳴らした。


 「足りさせるんだ。私が」


   ◇ ◇ ◇


 フェリクスが杖を鳴らして、二人の前に進み出た。


 「出立の前に、お教えすることがありますぞ。リザ殿」


 「何だ」


 「共鳴陣の組み方です」


 老書記は懐から折り畳んだ羊皮紙を取り出した。細かな文字と図が、びっしりと書き込まれている。


 「エルグラードの錨は、千人の領民の名で成り立っておる。南の島にそれだけの人数は居らぬ。四百人足らずでは、同じ形にはなりませぬ」


 「どうする」


 「《連ね結び》ですぞ。島人を二重三重の輪に分け、外輪、中輪、内輪の役目を割り振る。外は拍を取り、中は詠唱を、内は想いを結ぶ。人数が少なくとも、重ねることで厚みを持たせられる」


 リザは羊皮紙を睨み、眉を寄せた。


 「面倒だな」


 「面倒ですぞ」


 老書記が真顔で頷いた。


 「ですが、ここを間違えれば、島ごと名欠けに呑まれかねませぬ。リザ殿は衝撃の聖女。力で押し切る傾きがおありだが、この術は力では結べませぬ」


 痛いところを突かれたのか、リザが唇を尖らせた。


 「分かっている。だが私は、誰かに頼るのが得意じゃない」


 「得意でなくて結構。島人の皆さんに、頼るだけです」


 アズマリアが穏やかに告げた。


 「リザ。あなたはアーミナの祠で、島の皆さんが一緒に輪を支えてくださるのを見ているでしょう」


 「……ああ」


 「あの人たちは、頼られると強いのです」


 少女は羊皮紙をぐしゃりと折り畳み、懐に押し込んだ。


 「覚えておく」


   ◇ ◇ ◇


 「リザおねえちゃん!」


 セーラが駆けてきた。栗色の髪を揺らし、胸に小さな花束を抱えている。あの花冠の残りの白い小花だ。


 「これ、持っていって」


 「何だ、これは」


 「名封じのお守り。聖樹の根の繊維と、生きた花を結んだの。フェリクスさんに教わりながら作ったから、ちゃんと効くと思う」


 リザは目を瞬かせ、花束を受け取った。小さな白い花が、朝日の中で露を宿している。


 「……ありがとう」


 「泣き声がひどい夜は、これを枕元に置いて寝て。わたしの分も、守ってね」


 セーラはへへ、と笑ってみせた。栗色の糸が鈴の中から出てきた日から、彼女の笑顔にはどこか影が差している。それでも、無理に明るく振る舞う姿が、アズマリアの胸を締めつけた。


 「セーラ。あなたは、私が必ず守ります」


 「うん。お姉ちゃんなら、大丈夫」


 セーラは頷き、それから小声で付け加えた。


 「あのね、鈴の夢を見たの。昨日の夜」


 「どんな夢でしたか」


 「歌を、うたってた。男の人が。わたし、その歌、知ってる気がしたの」


 アズマリアは目を見張った。


   ◇ ◇ ◇


 馬車が動き出す直前、ヴィルヘルムが窓辺に歩み寄った。


 「ガルシュタイン」


 「何だ」


 「リザを頼む。無茶をする子だ」


 「聞こえているぞ」


 リザが馬上から睨んだ。ヴィルヘルムは苦笑して手を振る。


 「分かってる。だから頼んでるんだ」


 魔王は真顔で頷いた。


 「任された。我が命に代えても、とは言わぬ。生きて戻ることを、二人の約束とする」


 「それでいい」


 やがて馬車と二頭の馬が、ゆっくりと門を出ていった。


 車輪の音が遠ざかる。セーラが手を振り続ける。アズマリアはその背中を見つめながら、胸の根印が冷たく疼くのを感じた。


 (どうか、無事で)


   ◇ ◇ ◇


 馬車の中で、ガルシュタインは静かに目を閉じていた。


 リザは窓の外を流れる街道を見つめている。セーラの花束は膝の上で揺れ、馬車の振動に合わせて小さな花弁が震えていた。


 「なあ、ガルシュタイン」


 「何だ」


 「例の石板。持ってきたのか」


 魔王は目を開け、無言で旅荷から石板を取り出した。魔族の聖典を石に刻んだ写しだ。欠けた一節に当たる部分が、白く削られたように空いている。


 「見ても、何も書かれていない」


 「この写しを作らせたのは父だ。原本から頁を破り捨てた後にな。だからここには、何も無い」


 彼はそう言って、石板の裏を返した。


 その瞬間、ガルシュタインの動きが止まった。


 裏面に、小さな文字が刻まれていた。擦り切れた古い筆跡。彼の知る、父の癖字だった。


 「……これは」


 「何だ」


 リザが身を乗り出した。ガルシュタインは、掠れた声で読み上げた。


 「《名を渡す者は、己の名を持たぬ》」


 馬車の中が、凍りついたように静まった。


 (名を渡す者は、名を持たない)


 名なし劇の三つの役。名を知る者、名を呼ぶ者、名を渡す者。そして名を失った白面の役者。


 (彼は、名を渡す者になるために、名を捧げたのか)


 窓の外で、街道の木々が秋の風に鳴った。


 新月まで、あと七日。

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