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EP138.約束の指

夜の底は、音まで凍りついたようだった。


 乳母の部屋の燭台は燃え尽きかけ、蝋の溶けた匂いが苦く立ちのぼっている。窓の外では風がぴたりとやみ、祭りの笛も太鼓もいつの間にか止んでいた。羊毛の毛布は温かいはずなのに、アズマリアの指先は氷のように冷たい。腕の中の小さな身体だけが、確かな熱を持っていた。


 ノアハルトは母の胸に顔を埋めていた。


 息は戻っている。けれどその呼吸は、まだ長く、ゆっくりだった。


 「ノアハルト。ノアハルト」


 アズマリアが名を呼ぶたびに、小さな背中がぴくりと動く。扉の脇ではヴィルヘルムが、床に膝をついた乳母を支えて椅子に座らせていた。白煌が幼子の足元に寄り添い、フィーの光が部屋の隅で心配そうに揺れている。


 やがて、幼子がゆっくりと顔を上げた。


 大きな目が、母を映す。


 「……かあさま」


 掠れた小さな声だった。


   ◇ ◇ ◇


 「ここにいますよ。怖い夢を見ましたか」


 アズマリアは額を寄せた。ノアハルトは首を横に振り、それから小さな指で、窓の外の闇を指した。


 「おっきいひと」


 「大きい人」


 「ないてた。ずうっと。いたいって」


 部屋の空気が張り詰めた。ヴィルヘルムが息を呑む。


 「ノアハルト。その人は、どんな声でしたか」


 「んーとね」


 幼子は懸命に言葉を探した。


 「ふかくて、おそくて……さみしいの。かあさまのこえ、きこえたよ。そしたら、ちょっとだけ、ねんねしてくれた」


 アズマリアの喉の奥が熱くなった。


 息が止まったのは、危機ではなかったのかもしれない。眠り人は、この子を通して母の声を聞き、少しだけ痛みを忘れたのだ。


 (この子は、向こうの声を聞ける)


 それは祝福であり、同時に危うい贈り物だった。


 「ありがとう。教えてくれて」


 アズマリアは幼子の髪を撫でた。


 「かあさま、いっちゃうの」


 その問いに、彼女は答えを詰まらせた。ノアハルトの小さな手が、母の寝間着をぎゅっと握る。


 「いっちゃやだ」


 「……必ず、帰ってきます」


 「ほんと?」


 「ええ。母さまは、約束を守る人ですから」


   ◇ ◇ ◇


 扉が小さく軋んだ。


 エリアーナが立っていた。寝間着の裾を握り、素足で床を踏み、黒い珠を胸に抱えている。いつから聞いていたのか、頬には涙の跡があった。


 「お母さま」


 「エリアーナ。起こしてしまいましたか」


 「ううん。わたし、ずっと起きてたの」


 少女は部屋の中ほどまで進み、母と弟を見つめた。


 「ノアハルトにも聞こえたんだね。あの、おっきい人の声」


 「ええ」


 「わたしにも、聞こえるの。夢の中で。最初は怖かったけど、今はちょっと分かる。あの人、怒ってるんじゃなくて、迷子なの」


 アズマリアは息を呑んだ。


 娘は拳を握った。


 「わたし、扉の前までは行く。鍵を持つ役目だから。でもお母さまとの約束があるから、向こうへは入らない」


 「エリアーナ」


 「だから」


 少女は顔を上げた。まっすぐな瞳に、迷いはなかった。


 「ちゃんとお別れの練習をさせて」


   ◇ ◇ ◇


 夜明け前の厨房で、四人は小さな卓を囲んだ。


 乳母がノアハルトを抱いて奥の部屋へ戻り、残ったのはアズマリアとヴィルヘルム、エリアーナ、そして卓の下で丸くなった白煌。冷めた薬草茶から、かすかな苦い湯気が上っている。


 「約束の結び方を、教えてください」


 エリアーナが言った。


 「結び方」


 「うん。お母さまが向こうへ渡ったら、わたしは扉の前で待つ。その時、お母さまとわたしの間に何かが結ばれていれば、ちゃんと繋がっていられるでしょう?」


 ヴィルヘルムが、ゆっくりと息を吐いた。


 「名預けの術の、もっと小さな形のやつがある」


 彼は自分の右手の小指を立ててみせた。


 「《指結び》。古い、親子や恋人同士の約束の術だ。互いの小指に自分の名を込めて、結ぶ。結んだ者同士は、離れていても、相手の無事が分かる」


 「ヴィルヘルム、そんな術を」


 「昔、母に教わった」


 彼は照れ隠しのように頭を掻いた。


 「地味だし、力も弱い。錨の綱の何千分の一にもならない。でも、その分、細かいところに届く」


 エリアーナが小指を差し出した。


 「やって」


 アズマリアはその指に自分の小指を絡めた。根印が淡く灯る。二人の指の間に、髪の毛ほどの金の糸が一本、結ばれていく。


 「私の名はアズマリア。あなたの名はエリアーナ」


 「うん」


 「私は必ず戻る。あなたは必ず待つ。どちらかが迷えば、この糸を辿ること」


 糸が、すうっと皮膚に溶けた。


 エリアーナは小指を見つめ、それから、母の胸に飛び込んだ。


   ◇ ◇ ◇


 夜が明けた。


 窓の外で、鳥が一声鳴いた。薄い紫の空に、祭りの終わりを告げる鐘がゆっくりと響く。冷えた厨房に朝の光が射し込み、卓の上の薬草茶の水面に細い虹が揺れた。


 ヴィルヘルムは娘と妻を腕に抱いて、何も言わなかった。


 そのとき、勝手口が叩かれ、ハロルドが血相を変えて駆け込んできた。


 「失礼します! 一座の天幕から見つかりました」


 「何が」


 ハロルドは息を整え、低く言った。


 「白面です。役者が使っていたもの。そして」


 彼は掌を開いた。そこには、見覚えのある小さな札が一枚載っていた。白紙の札。縁には、淡い栗色の糸。


 そして裏に、墨で新しく、文字が書かれていた。


 《ごめんなさい。あとはおねがいします》


 新月まで、あと七日。

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