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EP137.息を合わせる子

乳母の部屋には、夜の静けさが柔らかく降りていた。


 窓辺の燭台に小さな炎が一つだけ灯り、小さな寝台の影が壁に大きく揺れている。温めた牛乳の甘い香りと、乾かした乳香の落ち着いた匂いが混じり、羊毛の毛布は触れると日向のように温かかった。遠くの祭りの笛と太鼓は、厚い壁に遮られて、夢のように薄く届いてくる。


 アズマリアは小さな寝台の傍らに腰を下ろしていた。白銀の髪を下ろし、薄い寝間着の上に肩掛けを羽織っている。腕の中には、ノアハルトがいた。


 まだ二歳にもならない小さな身体は、ふっくらとして温かい。短い髪が額に張りつき、瞼を半ば閉じた顔は、眠りの縁を行き来している。小さな指が、母の寝間着の胸元を握り締めていた。


 (今日も、あなたはここにいる)


 その温もりを確かめるたびに、胸の奥が柔らかく締めつけられる。扉の向こうへ渡れば、この子を抱けない日々が続く。


 扉の脇に、ヴィルヘルムが静かに立っていた。腕を組み、その眼差しは母子に注がれている。


   ◇ ◇ ◇


 ノアハルトが、小さく息を吐いた。


 ふう、と。長く、ゆっくりと。


 アズマリアは眉を寄せた。幼子の呼吸にしては、あまりにも間隔が長い。吸って、数を十まで数えて、吐く。その繰り返し。


 「ヴィルヘルム」


 「ああ。気づいてた」


 彼は声を潜めて近づいた。


 「昼間もそうだった。母親が覗き込んだら、いつも通りの息に戻る。でも一人にしておくと、あんな風に」


 「根印が」


 アズマリアは幼子の胸元に掌を重ねた。小さな胸の奥が、規則正しく脈打っている。そして彼女の胸の根印が、それに合わせて淡く灯った。


 一拍。二拍。三拍。


 この間隔を、彼女は知っていた。


 「向こうの世界の、息です」


 「何だと」


 「夢路で聞いた、眠り人の呼吸。あの山の腹が上下するような間隔と、同じです」


 ヴィルヘルムが息を呑んだ。小さな寝台の傍らで、白煌が身を起こし、不安そうに喉を鳴らす。


   ◇ ◇ ◇


 深夜の評議の間に、主だった顔が集まった。


 卓を囲むのは、アズマリア、ヴィルヘルム、ハロルド、フェリクス、ガルシュタイン、そしてリザ。末席にはセーラが毛布を肩に掛けて座り、足元で白煌が丸くなっている。窓の外では細い月がほとんど見えなくなっていた。


 新月は、八日後。


 「ノアハルトの件から話します」


 アズマリアが口を開いた。


 「あの子の根印は、眠り人の息と同じ間隔で呼吸しています。私が近くにいる間は抑えられていますが、一人にすると、あの息に合わせてしまう」


 「息合わせですな」


 フェリクスが唸った。


 「古い言葉で、深い縁のある者同士が、距離を超えて呼吸を揃える現象。多くは母子、あるいは契りを交わした夫婦。しかし異世界の存在と息が合うとは前例がない」


 「危険はあるのか」


 ヴィルヘルムが尋ねた。フェリクスは杖を握り直した。


 「呼吸が揃うということは、相手の状態が流れ込むということ。眠り人が目覚めかけておる今、幼子の息に引きずられて眠りが深まるのか、あるいは逆か」


 「どちらも危うい」


 ガルシュタインが短く言い切った。


 「息合わせは、強い縁の証だ。同時に、相手の死や喪失が、そのまま己に及ぶ道にもなる」


 沈黙が落ちた。セーラが毛布の端を握り締める。


   ◇ ◇ ◇


 「南の扉の件に移ろう」


 ヴィルヘルムが話題を切り替えた。


 「エリアーナの珠が二つの赤い点を示した。中央は、館の地下、聖樹の根の間。南は、リザの言うミナモ島の灯台だ」


 「同じ新月の夜に、二ヶ所で扉が開く」


 ハロルドが腕を組んだまま低く言った。


 「どちらかを放置すれば、そこから異界の何かが溢れ出す危険がある。かといって、主力を二つに割れば、アズマリア様の渡りが危うくなる」


 「私が行く」


 リザが即座に手を挙げた。


 「ミナモ島は私が見てきた。《震え読み》で泣き声の位置も把握している。扉を保つ役目は、私が一番向いている」


 「しかし一人では」


 「我も行こう」


 ガルシュタインが、静かに言った。


 全員が魔王を見た。


 「南の扉は、鈴の主の縁が深い。我が一族の聖典に通じる者が居なければ、鐘の舌の扱いもままならぬ。それに」


 紫の瞳が、窓の向こうの暗がりに向けられた。


 「父が破り取った頁の、手がかりがあの島にあるかもしれぬ」


 アズマリアは頷いた。


 「お二人にお願いします。南の扉を、閉じたまま保ってください」


 「閉じたまま?」


 リザが眉をひそめた。


 「開いてしまうのは止められない。扉の向こうに渡る必要もない。ならば、通い路が細く安定するように、鐘の舌で歌い守の役を務めるのです。アーミナの時と同じように」


 「なるほど。島の者と共鳴陣を組む」


 「ええ。錨と歌い守を、南でも」


   ◇ ◇ ◇


 会議が終わったのは、夜半を過ぎてからだった。


 アズマリアは皆を見送ってから、一人でノアハルトの部屋へ戻った。小さな寝台の傍らで、乳母が不安そうに立ち上がる。


 「聖女様。先ほどから坊ちゃまが」


 「どうしました」


 「ずっと目を開けておられるのです。それに、呼吸が」


 アズマリアは小さな寝台に駆け寄った。


 ノアハルトは大きな目を見開いて、天井をじっと見つめていた。小さな唇が、ゆっくりと開く。


 息が、止まっていた。


 吸ったまま。吐かないまま。数えて、十、二十、三十。


 根印が冷たく脈打つ。夢路で聞いた眠り人の息遣いが、ぴたりと途切れていた。山の腹が、上下を止めたように。


 (眠り人の息が、止まっている)


 窓の外で、風がやんだ。


 ノアハルトが、ゆっくりと瞬きをした。


 そして、嗚咽のように、一度だけ、細い声で泣いた。


 新月まで、あと八日。

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