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EP136.南から来た衝撃

館の門前には、朝霧が白い絹のように垂れ込めていた。


 街道の彼方から、蹄の音が近づいてくる。濡れた石畳を打つ乾いた響きは次第に速さを増し、霧の向こうで馬の荒い鼻息が混じった。潮の匂いが風に乗ってきた。海辺の生臭さではなく、遠い港で干された網のような、塩と日向の入り混じった匂いだ。門の脇の楡の葉が、冷えた朝の空気にさらさらと鳴っている。


 アズマリアは門柱の脇に立っていた。外套の襟を合わせ、赤い瞳で霧を見据えている。傍らのヴィルヘルムは腕を組み、寝不足の目を細めていた。


 収穫祭の前夜が明けたばかりだった。街では祭りの太鼓が鳴り始めているはずだが、館の者は誰も浮かれていない。行方の知れない役者の捜索は、夜通し続いていた。


 「来たぞ」


 ヴィルヘルムが顎で示した。


 霧を割って、栗毛の馬が躍り出た。鞍の上には小柄な影。くすんだ金髪を一本の三つ編みにし、日に焼けた頬に潮の塩を乾かした少女が、手綱を引いて馬を止める。


 「遅くなった」


 開口一番、少女は言った。


 「リザ」


 アズマリアは安堵の息を吐いた。


   ◇ ◇ ◇


 リザは鞍から飛び降り、乱暴に外套の裾を払った。


 十五歳。衝撃の聖女と呼ばれる少女の瞳は、海の底のような深い青をしていた。旅の汚れにまみれながら、その目だけは疲れを知らず、油断なく周囲を見渡している。


 「手紙は届いたか」


 「ええ。ありがとうございます。ご無事で何よりです」


 「無事なわけがあるか。船で三日、馬で二日、ほとんど寝ていない」


 リザは遠慮なくヴィルヘルムを見上げ、鼻を鳴らした。


 「あんた、酷い顔だな。ちゃんと寝てるのか」


 「お前に言われたくねえ」


 「私は寝ていない自覚がある。あんたは無いだろう。そこが違う」


 ヴィルヘルムが苦笑して頭を掻いた。アズマリアはその様子を見て、小さく笑みを零した。少女の遠慮のなさは、昔と少しも変わらない。


 「まずは中へ。朝食を用意させます」


 「その前にこれだ」


 リザは鞍袋から、布に包まれた細長いものを取り出した。受け取ったアズマリアの掌に、ずしりとした冷たさが伝わる。


 布を解くと、現れたのは一本の古びた鐘の舌だった。


   ◇ ◇ ◇


 館の食堂で、リザは湯気の立つ麦粥を三杯平らげてから、ようやく本題に入った。


 「南の島の名は《ミナモ島》。人口は四百に満たない小さな漁村だ。そこの灯台に、古い鐘が吊られている」


 「鐘」


 「私が見たのは、その鐘の舌だけだ。舌は外されて、灯台守の家の床下に埋められていた。妙だと思って掘り返したら、これが出てきた」


 彼女は鐘の舌を卓に置いた。


 「村の者に聞いても、誰も理由を知らなかった。ただ『舌を戻すと夜に泣き声がひどくなる』と言うんだ。外しておけば、海底からの泣き声は、静かにすすり泣く程度で済む」


 「泣き声の性質は」


 「数だ」


 リザは真剣な顔になった。


 「私は《震え読み》ができる。衝撃の聖女の本分だ。海の底の揺れを足の裏から読んで、数えた。ざっと千二百のすすり泣きだ」


 アズマリアは息を止めた。


 千二百。ほぼ、錨の名札の数と同じだった。


 「もう一つある」


 リザは懐から、白い札を取り出した。


 見覚えのある、何も書かれていない白紙の札だった。縁に、栗色に似た細い糸が結ばれている。


 「村の漁師が、網にかかったと言って差し出してきた。海から上がった時は、まだ温かかったそうだ」


 アズマリアは札を受け取った。根印が脈打つ。


 「《先札》です。しかも、同じ手で結ばれています」


   ◇ ◇ ◇


 アズマリアはこれまでの経緯をリザに語った。


 寄り鈴。顔のない役者。眠り人の印。夢路で名を奪われた子供たち。話を進めるにつれ、リザの眉間の皺が深くなっていく。


 「つまり、その役者が、守るために名を集めていたと」


 「そう見ています。ただ、目的はまだ分かりません」


 「南の島の話と重なる点がある」


 リザは卓を指で叩いた。


 「ミナモ島では、毎年収穫の季節に、白い仮面を被った旅の男が島を訪れるそうだ。ここ十年、ずっと」


 ヴィルヘルムが身を乗り出した。


 「毎年?」


 「ああ。島の者は一座の巡業と思っていたらしい。男は灯台の鐘の前で一晩、何かを唱えて帰る。去年も、その前の年も。島の婆さんが言っていた。『あの人は、鐘を黙らせに来てくれるんだ』と」


 食堂が、しんと静まり返った。


 「鐘を黙らせる」


 アズマリアは噛みしめるように繰り返した。


 「つまり、彼は十年間、毎年南の島を訪れて、泣き声を抑え込んでいたのですね。名なし劇の一座の仕事の合間に」


 「そう考えるのが自然だ。だが」


 リザの青い瞳が、鋭く光った。


 「今年は、まだ来ていない。収穫祭の前に来るはずが、来なかった。村の者は不安がっていた。そして私が島を発つ日の夜、鐘が一度、ひとりでに鳴った」


   ◇ ◇ ◇


 扉の外から、小さな足音が響いた。


 現れたのはエリアーナだった。寝間着の上に羊毛の肩掛けを羽織り、片手に黒い珠を握っている。後ろには眠たげな目のセーラと、杖をついたフェリクスが続いている。


 「お母さま。リザおねえちゃんの声がしたの」


 「リザ」


 少女は一瞬、気まずそうに視線を逸らした。


 「ああ、エリアーナか。久しぶりだな」


 「ううん。おねえちゃん、こわい顔してる」


 「悪かった。気をつける」


 リザが慌てて頬を押さえる。その仕草に、場の空気が少しだけ和らいだ。


 けれど、次の瞬間。エリアーナの掌の黒い珠が、ぱきりと乾いた音を立てた。


 亀裂から淡い光が溢れ、食堂の壁に光の模様を描き出す。それは、以前フェリクスが「扉の鍵」と読み解いた星の配置と同じだった。ただし今回は、赤い点が二つ並んで瞬いている。


 一つは、中央に。


 もう一つは、南の端に。


 「これは」


 フェリクスの声が、震えた。


 「扉は、一つではない」


 アズマリアはリザと顔を見合わせた。


 南の島の鐘が鳴った夜。島を訪れなかった白面の男。そして、新月は八日後。


 (扉は、同じ新月の夜に、二ヶ所で開く)


 窓の外で、霧が晴れていく。祭りの太鼓が、遠くで鳴り始めていた。


 新月まで、あと八日。

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