EP135.名なし劇の座長
街外れの広場には、色褪せた幌馬車が円を描いて並んでいた。
収穫祭を明日に控え、芝居小屋の骨組みが夕空に黒く浮かんでいる。焼き栗の香ばしさと、舞台用の白粉の甘い匂いが入り混じって風に流れ、遠くでは太鼓の稽古の乾いた音が一定の拍で響いていた。足元の土は踏み固められて硬く、馬車の車輪に染みついた古い油が、冷えた空気の中でかすかに臭った。
アズマリアとヴィルヘルムは、その円の入口に立っていた。足元には白煌が静かに従い、肩先ではフィーが小さな光を丸めている。
「ここだな」
ヴィルヘルムが掠れの取れかけた声で言った。練兵場で拾った青銅の欠片と白粉の指の跡。それを辿ってハロルドが調べ上げたのが、先週から街に滞在している旅の一座だった。
「《名なし劇》の一座。顔を白く塗って、仮面を被る芝居で、この地方では収穫の時期に必ず来るそうだ」
「名なし劇」
「名前を伏せた役者が、名のない神様の話を演じる。民話みたいなもんらしい」
アズマリアは、胸の奥で根印が冷たく疼くのを感じた。
◇ ◇ ◇
座長は、初老の小柄な男だった。
名はオルフェ。白い髭に丸い眼鏡、痩せた肩に擦り切れた緋色の外套を羽織り、手には古びた杖を持っている。舞台の下見をしていたらしく、化粧を落とした素顔には深い皺が刻まれていた。
「これはこれは、辺境伯様に聖女様。収穫祭の前夜にわざわざお運びとは」
「少し伺いたいことがあります」
アズマリアは青銅の欠片を差し出した。オルフェの眼鏡の奥の目が、わずかに細まる。
「これは……舞台で使う鈴の欠片ですな」
「舞台で?」
「ええ。《眠り人》の幕で、仮面の役者が持つ小道具です」
彼は欠片を指先で撫で、ゆっくりと頷いた。
「少し、お話ししましょう。楽屋へどうぞ」
幌馬車の中は、無数の仮面で埋め尽くされていた。壁一面に掛けられた白い仮面。目も口もない、のっぺりとした顔。昨夜の夢路で見た人影と、同じ形をしていた。
ヴィルヘルムが息を呑む。
「これが、顔のない者の正体か」
◇ ◇ ◇
「《白面》と申します」
オルフェは仮面の一つを手に取り、愛おしそうに撫でた。
「名なし劇では、役者は自分の名を捨てて舞台に立ちます。白面を被っている間は、ただの役。顔も名もない、眠り人の化身として」
「眠り人」
「ええ。昔話ですよ。世界の底に、名前のない大きな人が眠っている。その人が泣くと、小さな名のない子供たちが生まれる。皆は彼らを憐れみ、一人ずつ名を贈る」
アズマリアの背筋が冷えた。ネイの言葉と、ほとんど同じだった。
「その話は、どこから」
「さあ。先代の座長からそのまた先代の座長へ、代々伝わっております。台本には、決まった三つの役がありましてな」
オルフェは指を折った。
「《名を知る者》《名を呼ぶ者》《名を渡す者》。三役が揃って初めて、幕が下りる」
フィーが、アズマリアの肩でぽつりと念話を漏らした。
『ねえ。それ、錨の術にそっくりじゃない』
『ええ』
名を知る者、呼ぶ者、渡す者。それは、アーミナを取り戻した時の輪の構造そのものだった。
◇ ◇ ◇
「その幕で、鈴を持つ役者はどなたですか」
アズマリアは慎重に尋ねた。
オルフェは長い沈黙のあと、眼鏡を外して目頭を押さえた。
「それが……お話しせねばならぬのです」
老座長は、疲れた声で言った。
「あの役は、いつも同じ者が務めておりました。白面を被ったまま、決して素顔を見せず、台詞も少ない。ところが一昨日の夜、公演の後で姿を消したのです」
「名前は」
「それが」
オルフェは唇を震わせた。
「思い出せないのです」
ヴィルヘルムの眉が跳ね上がった。
「は?」
「十年以上、同じ一座で暮らした男です。飯も一緒に食った。酒も酌み交わした。それなのに、名前だけが、ぽっかりと抜け落ちている。他の団員に聞いても、皆同じことを言う。顔は浮かぶ。声も思い出せる。ただ、名前だけが出てこない」
老座長は懐から一枚の紙を取り出した。団員名簿だった。他の名前は全て記されているのに、一行だけ、墨が剥がれたように真っ白になっている。
「名簿にも、書いたはずなのに」
「名欠け、ですね」
アズマリアは静かに言った。
「しかも、本人が差し出したものではありません」
◇ ◇ ◇
白煌が不意に低く唸った。
幌馬車の隅、積まれた衣装箱の陰に、鼻先を押し込んでいる。ヴィルヘルムが箱をどかすと、その奥に小さな木箱が隠されていた。
開けてみると、中には何十枚もの小さな札が詰められていた。
どれも白紙だ。文字は一つも書かれていない。けれど札の縁には、栗色や黒や金の細い糸が結ばれ、まるで花束のように束ねられていた。
「これは……」
アズマリアは札を一枚取り上げた。根印が熱を帯びる。糸を辿る。かすかな記憶が流れ込む。
優しい、子守歌。小さな指が糸を結ぶ感触。そして、泣き声。
(ごめんね。ごめんね。まだ、返せないんだ)
若い男の声だった。深い悔恨に濁った、けれど決して悪意のない声。
「預けられていたのですね」
彼女は札を胸に抱いた。
「彼は、奪っていたのではありません。守っていたんです。名を持たない子供たちの名を、鈴の中に」
オルフェが、杖に縋るようにして膝をついた。
「そんな……あの子が……」
「あの子」
「ええ。あの役者は、ずっと昔、街道で行き倒れていたところを先代が拾った子供でした。名前は——名前は——」
老座長は両手で顔を覆った。
新月まで、あと九日。




