EP134.欠けた頁
館の書庫は、夜明けの青に沈んでいた。
天井まで届く書架には革装の本と巻物がぎっしりと詰まり、窓から差し込む細い光が舞い上がった埃を銀の粉のように照らしている。古い紙と膠の匂いが肺に重く、足を踏み出すたびに床板が低く軋んだ。遠くで朝一番の鳥が一声鳴き、それきりまた静けさが落ちる。
長机の上には、ひびの入った青銅の鈴と、一本の栗色の糸が置かれていた。
椅子に座ったアズマリアは、徹夜の目を擦りもせずに糸を見つめている。向かいにはガルシュタインが腰を据え、その隣で眠そうなセーラが毛布にくるまっていた。昨夜の騒ぎの後、一人にしておけないと皆が決めたのだ。
新月まで、あと九日。
「セーラ。眠れましたか」
「うん……ちょっとだけ。変な夢は見なかったよ」
栗色の髪を寝癖で乱したセーラは、へへ、と笑ってみせた。けれどその指先は、毛布の端をぎゅっと握り締めていた。
◇ ◇ ◇
「糸読みをします」
アズマリアが静かに言った。
「糸読み?」
「名の糸がどのように引かれ、どのように結ばれたかを辿る術です。根印を持つ者にしかできません」
彼女は左手の指先を栗色の糸に当て、目を閉じた。胸の奥の根印が淡く灯る。糸を伝って、遠い記憶のかけらが流れ込んでくる。
暗い夜。小さな寝台。窓の外で、かすかな鈴の音。
(ちりん)
幼い誰かが、寝返りを打つ。糸が、そっと引かれる。
けれど、そこにあるのは恐怖ではなかった。
「……痛みが、ありません」
アズマリアが目を開けた。
「引かれた時、この子は何も感じていません。むしろ、誰かが優しく毛布を直してくれるような」
「どういうことだ」
ガルシュタインが身を乗り出した。
「この糸は、奪われたのではなく預けられたもののようです。結び目の形が、そうなっています」
彼女は糸の端を示した。小さな輪が二重に重ねられた、独特の結びだった。
「預け結び。名を傷つけずに一時的に保管するための結びです。この結び方を知る者は、ほとんどいません」
セーラが目を見開いた。
「じゃあ、わたしの名前、誰かが守っててくれたってこと?」
「可能性はあります。ただ、同じ鈴の中に他の子供たちの糸も混じっていました。どれも預け結びだったのか、それとも」
アズマリアは言葉を濁した。
◇ ◇ ◇
書庫の扉が叩かれ、フェリクスが入ってきた。
老書記は昨夜の疲れを感じさせないほど目を輝かせ、腕に古い石板と羊皮紙の束を抱えている。
「見つけましたぞ。鈴の模様の写しを取って、魔族の聖典の拓本と照合しておりました」
「どうだった」
ガルシュタインが促すと、フェリクスは机の上に羊皮紙を広げた。鈴の表面に刻まれた歪んだ模様が、墨で正確に写し取られている。涙の雫の形に七本の線が流れる紋様。その横に、石板の拓本が並べられた。
二つは、寸分違わず重なった。
「これは……」
「《眠り人の印》ですな。聖典の第一頁に描かれておる紋です。ネイ殿の言う眠る大きな人の涙と同じ形でしょう」
アズマリアは息を呑んだ。ネイが語った、苦しげに眠り続ける巨大な影。その涙から生まれたという子供。鈴の紋は、その涙と同じ形をしていた。
「つまり、寄り鈴は眠る者と何らかの縁を持つ道具」
「そう考えるのが自然ですぞ。しかし妙なのです」
フェリクスは石板の下方を杖の先で示した。
「第一頁の下に、本来なら続く記述があるはず。それがごっそり欠けておる」
◇ ◇ ◇
ガルシュタインの顔から表情が消えた。
紫の瞳が石板の欠けた部分に注がれ、長い沈黙が落ちる。魔王の大きな手が、ゆっくりと拳を握った。
「覚えている」
掠れた声だった。
「我が幼い頃、父の書斎で、この聖典を読んだ。第一頁の下に、確かに続きがあった。眠り人の印と、その役目について書かれた一節が」
「その一節は」
「思い出せぬ。だが一つだけ、はっきりと覚えている。父は、ある夜その頁を破り取った。燭台の火にかざして燃やしながら、こう呟いていた」
彼は目を閉じた。
「『この名を知る者を、これ以上増やしてはならぬ』と」
書庫が、息をひそめたように静まり返った。
窓の外から朝日が射し込み、鈴のひびに淡い光が宿る。栗色の糸が、風もないのにふわりと揺れた。
「先代の魔王様が……」
「父は、何かを知っていた。だが我は、それを問う前に、世を去られた」
ガルシュタインの声には、珍しく深い悔いが滲んでいた。
◇ ◇ ◇
扉の外から、慌ただしい足音が近づいてきた。
現れたのはヴィルヘルムだった。焦げ茶の髪に寝癖をつけ、昨夜の花の汁で袖が緑に染まったままだ。声はまだ掠れているが、顔には強い光があった。
「アズマリア。見張りの兵が拾ったものがある」
「拾ったもの?」
ヴィルヘルムは掌を開いた。そこには、小さな青銅の欠片があった。鈴の破片に似ているが、色が違う。黒ずんだ緑青の錆がこびりつき、縁が鋭く欠けている。
「練兵場の隅に落ちてた。昨日の夕方は無かった。それに」
彼は欠片を裏返した。
裏には、擦り切れかけた指紋の跡があった。白い粉のようなものが、指の形に付着している。
フェリクスが虫眼鏡で覗き込み、小さく声を上げた。
「これは人の手の跡……白粉ですな。それも、古風な舞台役者が使う」
「鈴の主は、人間だということか」
ガルシュタインが低く言った。
顔のない者。鈴を提げた影。夢路にだけ現れる幻だと、誰もが思っていた。しかし、その手は現世に伸びていた。
アズマリアは栗色の糸と、青銅の欠片を見比べた。胸の奥で、根印が冷たい脈を打つ。
(この館の中に、誰かがいる)
新月まで、あと九日。




