EP133.縫い名のブルーノ
夕暮れの練兵場は、花の匂いで満ちていた。
傾いた陽が土の上に長い影を引き、吊るされた無数の松明がまだ火を灯さないまま風に揺れている。台の上には結び終えた札がずらりと並び、秋の花々が赤や黄の小さな焔のように咲いていた。足元の土は昼の人いきれを残して温く、遠くの鍛冶場からは終業の鐘が一打だけ響いてくる。
アズマリアは老婆と向かい合っていた。
名前はマルタ。背の曲がった小柄な婦人で、杖の代わりに古びた手拭いを握り締めている。手拭いは何度も洗われて色褪せていたが、隅に小さな縫い取りがあった。糸は深い緑で、文字のようにも見えるし、ただの蔓草のようにも見えた。
「見せていただけますか」
「ええ。夫が最後に残してくれたものです」
マルタは震える指で手拭いを広げた。
◇ ◇ ◇
縫い取りの文字を見た瞬間、アズマリアの胸の根印が熱を帯びた。
読めない。けれど、確かに文字だった。根源語に似た、しかしどこか手作りの歪みを持つ線。それが蔓草の形に擬態して、布の隅に息づいている。
「これは夫がわたしの誕生日にくれたんです。『お前の手拭いには、おれの名前を縫っておく。落とした時に、おれが拾いにくる印だ』って。笑ってしまいましたよ」
「縫い名、ですね」
背後からフェリクスが覗き込んだ。老書記は感嘆の息を漏らす。
「《縫い名》とは古い民間の術です。愛する者の名を生きた糸で縫い、布に宿す。聖樹の根から染めた緑の糸で縫えば、名は布が朽ちるまで離れませぬ」
「だから、あなたは忘れなかったのですね」
アズマリアが尋ねると、マルタは唇を噛んだ。
「他の人はみんな、夫なんて最初からいなかったと言うんです。娘も、近所の人も。わたしだけが覚えていて、気が違ったと思われて。でもこの手拭いを見ると、確かにあの人の匂いがするんです」
老婆の頬を涙が伝った。
「聖女様。夫の名前を、返していただけますか」
◇ ◇ ◇
アズマリアは老婆の手を握った。
「お約束はできません。ですが、取り戻す方法を探します」
彼女は根印に意識を集め、縫い取りの文字にそっと指先を触れた。糸の緑がほのかに光り、遠い記憶のような響きが指から胸へ流れ込んでくる。
(ブ……ル……)
名の残響。リアの時と同じだ。
「ブルーノ」
口にしたとたん、手拭いの縫い取りが淡く輝いた。蔓草の形を装っていた線がほどけて、はっきりとした文字になる。老婆が息を呑んだ。
「ブルーノ……そう、ブルーノ。わたしの夫は、ブルーノ」
周囲に集まっていた領民たちが、ざわめいた。ひとり、またひとりと顔を上げる。
「ブルーノ……鍛冶屋のブルーノ?」
「待てよ。そうだ、あいつ、うちの屋根も直してくれた」
「ずっと思い出せなかったのは、なんでだ」
名が、人の口から口へと染み渡っていく。老婆は声を上げて泣き崩れ、アズマリアはその肩を抱いた。
◇ ◇ ◇
感動の余韻は、日の沈む速さにかき消された。
西の空が茜から紫へと沈みはじめる。フェリクスが杖で台を叩いた。
「皆の衆、時が惜しいですぞ。名封じの結び目は、あと百七十残っております」
「あと百七十」
ハロルドが顔を上げた。副官の額には汗が光り、袖口は花の汁で緑に染まっている。
「日没まで四半刻もありません。いくら急いでも」
「やるしかない」
ヴィルヘルムが袖をまくり、台に積まれた花を一抱え掴んだ。
「あんたは、結び目を作るのは慣れてないよな。教えるからそのへんの連中と一緒にやれ」
「いえ、ヴィルヘルム。私は札に直接触れます」
アズマリアは台の上に両手をかざした。
「《神癒》の力で、結び目の形を整えます。皆さんが花を結んでくれた分を、私が一つずつあるべき形に返す」
「無茶だ。千二百近い札を一人で」
「一人ではありません」
彼女は壇の下の人々を見渡した。
「皆さんの名が札にあります。札が皆さんの声を覚えています。私はそれを繋ぐだけです」
◇ ◇ ◇
日が沈んだ。
練兵場の松明に一斉に火が入り、橙色の光が千二百余りの札を照らす。札の一枚一枚には生きた花が結ばれ、露をまとって淡く光っていた。静けさの中に、領民たちの息遣いだけが満ちている。
ちりん。
音は、祭壇から運ばれた青銅の鈴から響いた。
「来ましたぞ」
鈴が布の中で跳ねる。同時に、札の花々がざわりと揺れた。名封じの結び目が淡く金色に輝き、鈴の糸を拒むように光の壁を作る。
ちりん。ちりん。ちりん。
鈴は怒ったように鳴り続けた。
札のあちこちから、軋むような音が上がる。結び目の一つが弾け、花がほどけかけた。
「持ちこたえて!」
アズマリアが両手を広げた。金の光が札の海を這い、緩んだ結び目を一つずつ締め直していく。額を汗が伝い、足元が揺らいだ。
その時、傍らのセーラが小さな声を漏らした。
「……あれ?」
◇ ◇ ◇
鈴の音が、ふっと止まった。
松明の火が静かにぱちりと爆ぜる。札の花々は静かに揺れ、光の壁は消えずに残っていた。鈴は布の中で、動かない。
「しのいだ……?」
ハロルドが信じられないという顔で呟いた。領民たちから、安堵の溜息と歓声が上がる。マルタ婆さんは手拭いを胸に抱いて座り込み、ブルーノの名を何度も口の中で繰り返していた。
アズマリアは額の汗を拭い、青銅の鈴を取り上げた。表面にひびが入っている。そして、そのひびの隙間から、一本の細い糸がはみ出していた。
淡い栗色の糸だった。
ガルシュタインが糸を指先でつまみ、紫の瞳を細める。
「これは……名の糸だ。しかも、古い」
糸の端には、擦り切れた文字が刻まれていた。アズマリアはそれを読んで、息を止めた。
「セーラ」
名を呼ばれた少女が顔を上げる。栗色の髪が松明の光に揺れた。
「わたし?」
「この糸は、あなたの名のものです」
セーラは目を丸くして、それからくしゃりと笑った。
「でも、わたしここにいるよ。名前、ちゃんと覚えてるもん」
けれどその笑顔の奥に、ほんの一瞬、迷子のような影がよぎった。
新月まで、あと十日。




