EP132.返す手
祈祷室の空気が、きしむように震えていた。
宙に浮いた木札が互いにぶつかって乾いた音を立て、燭台の炎は寝かせた草のように横へ倒れている。冷えた石の匂いに混じって、焦げた蜜蝋の甘さと、錆びた金属に似た鈴の気配が鼻の奥を刺した。肌の上を見えない糸が這い、うなじの産毛が逆立つ。
祭壇の上で、白い札が青白く燃えていた。
「触るな!」
ガルシュタインが叫んだ。魔王の大きな手が、伸ばしかけたフェリクスの腕を掴んで止める。
「その札は今、鈴と同じ糸で繋がっている。素手で掴めばそなたの名ごと引かれるぞ」
「しかし綱ごと攫われてしまいますぞ!」
浮いた札の群れが、見えない流れに乗って祭壇の上を渦巻き始めた。麻紐が一本、また一本と軋んで張り詰める。アズマリアは唇を噛んだ。
(あの札一枚が、千二百三十七の名の入口になっている)
ならば、入口そのものを塞ぐのではなく。
◇ ◇ ◇
アズマリアは祭壇へ進み出た。
「アズマリア!」
ヴィルヘルムの掠れた声が背中に飛ぶ。彼女は振り返らず、片手を白い札の上にかざした。赤い瞳が静かに細められる。
「《神癒》は、あるべき形へ返す力です」
誰にともなく呟いた。
「この札は先札。誰かが迷子になった時、最初に結ばれる、ただ一枚の約束の札。綱の一部ではありません」
掌から淡い金の光が滲み出る。光は札の縁を撫で、麻紐との間に絡んだ見えない糸を一本ずつほどいていった。札がぶるりと震え、青白い炎が少しずつ静まっていく。
「あなたの帰る場所は、そこではありません」
最後の一本がほどけた瞬間、白い札はふわりと浮き上がり、アズマリアの掌の上に収まった。
同時に、宙を舞っていた千二百三十七の札が、雨のように祭壇へ降り注いだ。
乾いた音が重なり、祈祷室に静けさが戻る。
「……やりましたな」
フェリクスが膝から力が抜けたように椅子へ座り込んだ。
◇ ◇ ◇
けれど、アズマリアは額に冷たい汗を滲ませていた。
白い札はまだ掌の中で熱を持っている。そして布に包まれた寄り鈴が、卓の上で小刻みに跳ねていた。
「鈴が諦めておりませんぞ」
「諦めるはずがない」
ガルシュタインが石板を睨んだ。
「札を綱から外しても、綱の千二百三十七枚はすでに白札と同じ縁を共有してしまった。鈴は次の鳴りで、再び綱ごと手繰ろうとする。聖典では鈴の鳴る刻は決まっている」
「刻」
「《名の刻》。夜明けと日暮れ。次は今日の日暮れだ」
扉が開き、ハロルドとセーラが駆け込んできた。
「アズマリア様。旅団の者を中庭に集めました」
「お姉ちゃん!」
栗色の髪を乱したセーラが、胸に抱えた花冠を差し出した。昨夜エリアーナの枕元に置いたものだ。
「これ、見て。夜中に変だなって思って」
花冠の白い小花は、一輪も萎れていなかった。それどころか、祈祷室の淀んだ空気の中で、露を浴びたように瑞々しく光っている。
「鈴の音がした時、部屋中の花瓶の花が全部しおれたの。でもこの冠だけ、全然平気だった」
◇ ◇ ◇
フェリクスが花冠を受け取り、虫眼鏡で小花の茎をじっと見つめた。
「これは……聖樹の根の繊維が編み込まれておりますな。セーラ殿、どこでこの紐を」
「根の間で拾ったの。エリアーナの花冠がほどけないようにって、床に落ちてた細い繊維を使ったの」
老書記の目が、驚きの光を帯びた。
「生きた根の繊維を、生きた花に結ぶ。それが名封じの原型ですぞ」
「名封じ」
アズマリアが繰り返すと、フェリクスは頷いて杖で床を叩いた。
「名封じとは、名札の結び目に聖樹の根の繊維を撚り込み、さらに生きたものの息吹を宿す術。ただの紐では、鈴の糸にほどかれる。だが生きて芽吹くものに結ばれた名は、鈴も容易には断ち切れぬ」
「つまり、花か」
ヴィルヘルムが低く呟いた。
「千二百三十七の札に、それぞれ生きた花か何かを結ぶ」
「そういうことですぞ」
ハロルドが腕を組み、重々しく息を吐いた。
「日暮れまで半日。中庭の花壇をすべて刈っても足りません」
「足りない分は、市場の花屋と農園に頼みましょう」
アズマリアはきっぱりと言った。
「領民の皆さんが、自分の名札に自分の手で花を結ぶ。それが一番強い名封じになるはずです」
◇ ◇ ◇
昼前の練兵場は、色とりどりの花に埋め尽くされていた。
秋の薄日に照らされて、赤い小菊、黄色の石蕗、紫の野紺菊、白い吾亦紅が、露を含んだまま台の上に山を成している。甘く青い匂いが風に溶け、遠くでは子供たちの笑い声が弾けていた。
旅団の治療師たちが一人一人に聖樹の根の繊維を配る。領民が自分の名札を受け取り、花を選び、慣れない手つきで結んでいく。セーラが列の端で幼い子の手を取り、ハロルドは無言で人の流れを整える。壇上ではフェリクスが一枚ずつ出来上がりを確かめては、杖の先で印をつけた。
「次の方。お名前の札はこちらです」
列の中ほどで、一人の老婆が足を止めた。
背の曲がった小柄な婦人だった。手には名札も花も持たず、ただ白髪の下から濁った目でアズマリアを見上げている。
「聖女様。わたしには結ぶ札がないんです」
「札がない」
「ええ。だって二年前に、夫の名前が消えたんですから」
周囲のざわめきが止まった。老婆は震える手で胸の前の古びた手拭いを握り締める。
「夫は確かにいたんです。毎朝一緒にパンを焼いて。それが、ある晩、鈴の音がして——翌朝には誰も夫のことを覚えていませんでした」
アズマリアの胸の奥で、根印が冷たく脈打った。
老婆の瞳は、嘘をついている者のそれではなかった。
日暮れまで、あと半日。
新月まで、あと十日。




