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EP131.白札の罠

館の祈祷室は、夜明け前の青い闇に沈んでいた。


 高い窓から射す光はまだ薄く、床に敷かれた石は足の裏がしびれるほど冷たい。壁際の燭台には蜜蝋が細く燃え、甘い香りと古い香炉の灰の匂いが混じって鼻をくすぐった。静寂の中で、遠い鐘楼が夜明けの一打をゆっくりと告げる。


 祭壇の上には、白い布に包まれた麻紐の束が置かれていた。千二百三十八枚の名札を結んだ錨の綱だ。その傍らには、あの白い札が一枚だけ別に置かれている。


 アズマリアは青銅の鈴を厚い布で包んだまま、祭壇の前に立っていた。眠らずに過ごした夜の疲れで、白銀の髪の根元が少し乱れている。赤い瞳だけが冴えていた。


 「持ち込んだ覚えはない、のですね」


 「ええ。誰も」


 背後でフェリクスが杖を鳴らした。老書記の顔は夜明けの光より青白い。


   ◇ ◇ ◇


 ガルシュタインが祭壇に石板を置き、青銅の鈴を布から取り出した。


 掌ほどの鈴だった。表面には根源語に似た歪んだ模様が刻まれ、縁は黒ずんでいる。魔王の紫の瞳が細められた。


 「寄り鈴だな」


 「寄り鈴」


 「魔族の聖典に記された、名の糸を集める道具だ。使い手は鈴を鳴らして、名を持つ者の縁を手繰り寄せる。ただし本来は迷子の名を探すための優しい術だ。これは誰かが歪めて使っている」


 彼は鈴の内側を覗き込んだ。無数の細い光の糸が、渦を巻いている。


 「中に溜まっているのは、夢路で奪われた子供たちの名だ。リアの糸だけが、一本、鈴の外に垂れている。そなたが取り戻したからだろう」


 「では、あの人影は」


 「分からん。ただ、顔のない者が口にした数が気になる」


 ガルシュタインは祭壇の麻紐の束を見た。


 「千二百三十八。この錨の綱の札の枚数と一致している。偶然とは思えぬ」


 部屋の隅で、ヴィルヘルムが低く呟いた。昨夜の声はまだ掠れている。


 「つまり、狙いは錨か」


   ◇ ◇ ◇


 沈黙を破ったのはフェリクスだった。


 「待ってくだされ。もしや……」


 老書記は祭壇に近づき、白い札を指先で持ち上げた。裏の文字は、昨夜よりさらに濃く光っている。《まだ》《エリアーナ》《リア》。


 「この先札は、わしが数え直して見つけたもの。だがもし、これが最初から仕掛けだとしたら」


 「仕掛け」


 「錨の綱は千二百三十七枚の札で成り立っておった。そこに白札が一枚紛れ込み、千二百三十八に増えた。顔のない者が求めた数と、ぴたりと揃う」


 アズマリアの胸が冷えた。


 「名札の綱は、一枚でも異質な札が混じれば、綱ごと同じ縁で繋がる。つまりこの白札を通せば」


 「寄り鈴は、錨の全ての名を手繰り寄せられる」


 ガルシュタインが低く言い切った。


 「千二百三十七人の名が、一度に鈴へ吸い込まれる。名を失った者は、誰の記憶にも残らぬ。領民も、旅団の者も、学び舎の子供たちも」


 誰も口を開かなかった。燭台の炎が風もないのに揺れる。


 ヴィルヘルムが拳で壁を叩いた。


 「ふざけんな。あの子供たちの札なのに、利用されてるってことかよ」


   ◇ ◇ ◇


 「それでも、この札を捨てるわけにはいきません」


 アズマリアは静かに言った。全員が彼女を見る。


 「リアの名は、この札を通して戻りました。エリアーナも、あの子たちを呼んでいます。先札は、本当に助けを求める声でもあるはずです」


 「しかしアズマリア様」


 「ええ。罠でもあり、叫びでもある。どちらも本当なのでしょう」


 彼女は白い札をそっと両手で包んだ。


 「だから確かめます。この札を綱から外し、別の結びで守る。名封じの結びを使えば、鈴が糸を手繰っても札の外へは繋がらないはずです」


 フェリクスが唸った。


 「名封じ……聖樹の根の繊維を撚って、札の周りに結び目を作る術ですな。ただし結び手が一人では足りぬ。結び目の一つ一つに、名を預けた者の想いを込めねば」


 「千二百三十七人分の結び目、というわけか」


 ハロルドの声が戸口から響いた。副官は短く刈った髪に夜露を乗せ、息を弾ませている。


 「アズマリア様。今、旅団の者を集める手配をしました。夜が明け次第、全員に結び目を作らせます」


 「ありがとうございます。ハロルド」


 「礼は後で。それより」


 ハロルドの視線が祭壇に落ちた。


   ◇ ◇ ◇


 麻紐の束が、微かに震えていた。


 白い布の下で、千二百三十七枚の木札が一斉に鳴っている。乾いた木が擦れ合う音が、祈祷室の静寂を細かく切り刻んでいく。


 「まだ夜は明けておりませんぞ」


 フェリクスの声が上擦った。


 「寄り鈴が鳴ってもおらぬのに、なぜ」


 ちりん。


 音は、アズマリアの手の中の布の下から響いた。青銅の鈴がひとりでに揺れている。窓の外では空が黎明の紫に染まり、遠い鐘楼の余韻がまだ残っていた。


 束の札が、一枚、また一枚と、ふわりと宙に浮かび始めた。


 「結び目を! 急いで!」


 アズマリアが叫んだ時、祭壇の上で、白い札が鮮やかな青白い光を放った。


 新月まで、あと十日。

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