EP130.鈴に集う名
水底の道は、鈴の音が響くたびに色を失っていった。
頭上の光の膜は鈍い灰色に濁り、足元の白い砂は冷たく湿った粘土のように重い。口の中に鉄に似た味が広がり、水の流れは耳元で誰かの囁きのようにざわめいていた。道の両側に立つ木札が風もないのに揺れ、乾いた木が擦れる音が幾重にも重なる。
アズマリアはエリアーナを背に庇って立っていた。白銀の髪が水の中でゆらりと広がり、赤い瞳が顔のない人影をまっすぐに見据えている。肩先ではフィーが小さな光を必死に灯していた。
『アズマリア。紐の光がもう半分しかない』
「分かっています」
手首の白い紐は細く震え、現世のヴィルヘルムの声はほとんど聞こえなくなっていた。その代わり、子供たちの影が一人また一人と立ち上がり、囲むように近づいてくる。
(かえして)
(わたしの なまえ)
◇ ◇ ◇
恐ろしいのは、子供たちの目だった。
どの影も目だけがはっきりしていて、そこに宿る光は怒りではなかった。置き去りにされた者の、ただ切実な縋るような色。アズマリアはその目を知っていた。かつて役立たずと追放された日、自分も同じ目で誰かを見ていたはずだった。
彼女はゆっくりと膝をつき、近づいてきた小さな影と目の高さを合わせた。
「あなたたちを責める気はありません。私にも、返せるものがあるかもしれません」
影の肩が震える。
「ですから教えてください。名前は思い出せなくても構いません。呼ばれた時の音は覚えていませんか」
『……おと……』
小さな唇が動いた。
「ええ。誰かがあなたを呼んだ時の、最初の響き。魔族の聖典では《名の残響》と呼ぶそうです。名が奪われても、その残響だけは魂に刻まれている」
影の少女は目を閉じた。長い沈黙のあと、細い声が漏れた。
『……リ……』
「リ」
『……リ……ア……』
アズマリアは根印に手を当てた。胸の奥で縁の糸が淡く光る。その音の欠片を、根源語の響きに重ねていく。
「リア。あなたの名前は、リアではありませんか」
少女の瞳から、一粒の光が零れた。
◇ ◇ ◇
その光は札に降り注いだ。
かすれていた木札の文字が、墨を差すように浮かび上がる。《リア》。少女の輪郭が淡く色を帯び、膝を抱えていた細い腕が胸の前で組まれた。
『リア……わたしの……なまえ……』
「ええ。覚えている人がここにいます」
周囲の影たちがざわめいた。一斉に手を伸ばし、アズマリアに近づこうとする。
『ずるい!』
『わたしも! わたしも!』
『かえして! かえして!』
「落ち着いてください。順番に」
けれどその声は、鈴の音にかき消された。
ちりん。
顔のない人影が、いつの間にかすぐそばまで来ていた。冷たい水が一瞬で凍りつくように、道全体が静まり返る。リアと呼ばれた少女の輪郭が揺らぎ、せっかく浮かんだ文字が滲んでいく。
「やめなさい」
アズマリアは立ち上がった。
人影は首を傾げただけだった。手に提げた小さな青銅の鈴が、かすかに光る。その内側には、渦を巻くように無数の細い光の糸が閉じ込められていた。
(名の糸だ)
子供たちから奪われた名が、すべてあの鈴の中にある。
◇ ◇ ◇
エリアーナが、母の裾を握った。
「お母さま。歌ってもいい」
「歌えますか」
「うん。ここなら、きっと届くよ」
幼い娘は大きく息を吸い、黒い珠を胸の前で握り締めた。そして、小さな声で歌い始めた。
還り歌。アーミナが二百年前から贈り続けた、迎えの歌。
旋律が水の底に広がっていく。灰色に濁っていた光の膜が少しずつ透き通り、足元の砂に淡い金色の波紋が走った。子供たちの影が、一人また一人と歌に耳を傾ける。顔のない人影の鈴が、不快そうに鳴った。
ちりん。ちりん。
「あなたは」
アズマリアは人影に向かって一歩踏み出した。
「どうして名を集めるのですか」
長い沈黙の末に、初めて声がした。口のない顔から、男とも女ともつかない乾いた音が響く。
『足りない』
「足りない」
『まだ足りない。新月までに。千と二百三十八』
アズマリアは息を呑んだ。
その数は、白札が混じっていた錨の名札の総数と同じだった。
◇ ◇ ◇
目が覚めたのは、ヴィルヘルムの腕の中だった。
根の間の灯りが戻り、苔の緑が静かに揺れている。胸元には荒い息をつくエリアーナがいて、頬には涙の跡があった。手首の紐は、切れる寸前まで細くなっていた。
「……戻ったか」
ヴィルヘルムの声が掠れていた。額には汗が滲み、握り締めていた紐の端が掌に赤く食い込んでいる。
「ええ。ご心配をおかけしました」
「心配なんてもんじゃねえ。途中で俺の声が出なくなった。喉が、何かに掴まれたみたいに」
フェリクスが蒼い顔で近づき、巾着から札を取り出した。裏の文字が、前よりはっきりと濃く光っている。《リア》の名が、小さく増えていた。
「夢路で名を取り戻した成果ですな。しかし」
老書記の視線は床に落ちていた。
寝台の足元に、小さな青銅の鈴が転がっていた。
誰も持ち込んでいないはずの鈴が、夢の中と同じ光を宿して、ひとりでにちりんと鳴った。
新月まで、あと十一日。




