EP129.夢結びの夜
館の地下には、古い聖樹の根が張り出した小さな部屋があった。
石壁を這うように太い根が走り、その表面には苔が柔らかな緑の光を灯している。空気は湿っていて、土と樹液の甘い匂いが濃い。足元の石畳は冷たく、靴底越しにも根のかすかな脈動が伝わってきた。どこかで水の滴る音が一定の間隔で響き、その他には何の物音もない。聖樹の根の間と呼ばれるこの部屋は、館が建つ前から変わらずここにあるのだという。
アズマリアは根の間の中央に立っていた。傍らにはフェリクスとガルシュタイン。少し離れた壁際で、ヴィルヘルムが腕を組んで黙っている。足元では白煌が根の上に伏せ、肩先ではフィーが小さな光をちらつかせていた。
新月まであと十一日。夜が明けても、白札の温もりは消えていなかった。
「夢結びを行いますぞ」
フェリクスが杖の先で根の一本を示した。
「先札の結びを逆に辿り、夢路に足を踏み入れる術です。エリアーナ様の見る夢の中へ、母君が同行する」
◇ ◇ ◇
ガルシュタインが石板の写しを広げた。
「夢結びの要は三つだ。一つ、札。迷子札を橋として使う。二つ、紐。眠る者同士の手首を結び、夢の外にもう一本の道を残す。三つ、見張り。夢路の外で眠る者の名を呼び続ける者が要る」
「見張りは俺がやる」
ヴィルヘルムが即座に言った。
「札と紐があるなら、あとは呼ぶだけだろ。得意だ」
「ただし声の調子を崩すな。夢路で聞こえる声は、現世の声より遥かに脆い。苛立ちが混じれば、名の糸が痩せる」
「……分かった」
ヴィルヘルムは短く答え、それから視線をアズマリアへ向けた。
「あんた、本当に行くのか。向こうの世界の下見は昨日やったばかりだろ」
「ええ」
「止めても聞かねえよな」
「止めてくださっても構いません」
アズマリアは微笑んだ。
「ですが、あの子が一人で毎晩歩いていた道です。母が先に見ておかなければ」
ヴィルヘルムは息を吐き、乱暴に頭を掻いた。
「約束しろ。戻ってこいよ。あの子を連れて」
「はい」
◇ ◇ ◇
夕刻、エリアーナが乳母に手を引かれて根の間に現れた。
小さな夜着に羊毛の肩掛け。手の中の黒い珠は、前よりさらに大きな亀裂を走らせて、淡く青く光っている。後ろにはセーラがいて、栗色の髪を揺らしながら編みかけの花冠を抱えていた。
「お母さま。わたし、ちゃんと眠れるかな」
「眠れますよ。母さまが隣にいます」
「あのね、セーラおねえちゃんがお花をくれたの」
セーラが照れ笑いして花冠をエリアーナの枕元に置いた。
「夢の中でもお守りになるといいなと思って。夜道は暗いから」
「ありがとうございます、セーラ」
アズマリアは頷き、石の寝台に娘を横たえた。自分も隣に身を横たえ、二人の手首を白い紐で結ぶ。紐の端はヴィルヘルムが握り、札の入った小さな巾着がその上に置かれた。
フェリクスが杖で床を叩くと、根の灯りが一斉に弱まった。
「では始めますぞ。眠りの中で、迷わぬように」
◇ ◇ ◇
ヴィルヘルムが、静かに名を呼び始めた。
「アズマリア。エリアーナ」
低く平らな声が、根の間に染み込んでいく。何度も、何度も。白煌が喉の奥で唸り、フィーが震える光をアズマリアの額に落とした。
『あたしは眠らないから、夢の中でもずっとそばにいてあげる。ちゃんと見ててあげる』
「お願いします」
目蓋が重くなった。耳元で聞こえる名の呼び声が、波に押し流されるように遠ざかっていく。胸の根印が熱を帯び、手首の紐が細く光り、そして——
冷たい水の匂いがした。
◇ ◇ ◇
目を開けると、そこは水の中だった。
けれど息は苦しくない。頭上に薄い光の膜があり、足元には白い砂の道が果てしなく続いている。傍らでエリアーナが小さな足で砂を踏み、不思議そうに辺りを見渡していた。
「ここだよ、お母さま。いつも来る道」
道の両側には、無数の木札が杭のように立っていた。どれも文字がかすれ、かろうじて形だけが残っている。札の根元には小さな影が膝を抱えて座り、唇だけが静かに動いていた。
(まだ)
(まだ、ここに)
アズマリアは娘の手を強く握り、ゆっくりと歩き始めた。
道の先で、かすかな音がした。
ちりん。
鈴の音だった。
エリアーナの肩がびくりと跳ねる。振り返ると、道の遥か後ろに、顔のない人影がひとつ、水の中に立っていた。
◇ ◇ ◇
人影は、動かなかった。
ただ、手に提げた小さな鈴を一度だけ揺らし、それからゆっくりと首を傾げる。仮面のようにのっぺりとした顔には、目も口もない。けれどアズマリアは確かに感じた。見られている、と。
『あたしたちのことを、見てる』
フィーの声が耳元で震えた。
『アズマリア。あの人、あなたの名前を……』
その瞬間、アズマリアの耳に、現世のヴィルヘルムの声が細く届いた。
「アズマリア。エリアーナ」
そして、顔のない人影が、初めて口のない顔で笑った気がした。
◇ ◇ ◇
鈴が、もう一度鳴った。
ちりん。
すると手首の紐の光がふっと痩せた。ヴィルヘルムの声が遠ざかる。
「……いけない」
アズマリアはエリアーナを抱き寄せた。水の底に立つ札たちが、一斉にこちらを向く。小さな影が、ひとつ、またひとつと立ち上がった。
その唇が、さっきまでとは違う言葉を形作っていた。
(かえして)
(わたしの なまえ)
鈴の音が近づいてくる。
新月まで、あと十一日。




