EP128.夢の根に結ばれた名
エリアーナの寝室には朝の光が薄く満ちていた。
窓辺の白いカーテンが風に揺れ、床に淡い影を揺らしている。枕元に置かれた干した洋甘菊の甘い香りに、羊毛の毛布の日向くさい匂いが重なった。遠くの庭では朝露を払う箒の音が乾いた拍子を刻み、階下の厨房から焼きたてのパンの香ばしさがかすかに上ってくる。
寝台の上で、エリアーナは小さな寝息を立てていた。亜麻色の髪が枕に広がり、握った拳の中にはあの黒い珠がある。珠の表面の亀裂が、呼吸に合わせて淡く明滅していた。
アズマリアは寝台の縁に腰を下ろし、娘の額に掌を当てた。熱はない。ただ、唇だけが静かに動き続けている。
(歌っている。眠りながら)
背後でヴィルヘルムが扉の脇に立っていた。焦げ茶の髪に寝癖をつけたまま、腕を組んで眉を寄せている。
「どうだ」
「異常はありません。ただ、札の名が」
アズマリアは手の中の白い札を見せた。裏の根源語には《まだ》と《エリアーナ》が並んでいる。ヴィルヘルムの奥歯がぎしりと鳴った。
「ふざけんな。うちの娘を何に使う気だ」
◇ ◇ ◇
フェリクスが呼ばれたのは、朝食の湯気がまだ残るころだった。
老書記は寝台を覗き込み、娘の額に杖の先を近づけて、小さく息を吐いた。
「ご安心を。名は削られておりませぬ。これは《名欠け》ではなく《結ばれ》の兆しですぞ」
「結ばれ」
「先札はただ助けを求めるだけではありませぬ。呼ぶ声に応じる者を見つけたとき、その者の名を札の裏に写し取り、縁の糸を結ぶのです。結ばれた者は、夢を通して札の持ち主と行き来できるようになる」
「夢路、という理屈か」
ヴィルヘルムが低く呟いた。
「根の道が眠りの中にも延びるというわけだな」
「左様。ただし夢路を長く歩けば、現世の名が薄れます。結ばれが深まれば、最後には本当に名欠けになりかねませぬ」
アズマリアは娘の手をそっと握った。珠が掌の中で鼓動のように脈打つ。
「では、起こしましょう。そして話を聞きます」
◇ ◇ ◇
アズマリアが肩をそっと揺すると、エリアーナはほどなく目を開けた。
長い睫毛が震え、焦点の定まらない瞳が天井を巡る。それから母の顔を見つけて、ふにゃりと笑った。
「お母さま。おはよう」
「おはようございます。よく眠れましたか」
「うん。あのね、ずっと歌ってたの。お母さまも聞こえた?」
アズマリアは胸の痛みを隠し、娘の髪を撫でた。
「ええ。とても綺麗な歌でした。ところで、夢の中で誰かに会いましたか」
エリアーナはきょとんとして、それからこくりと頷いた。
「水の中のおうちの子。名前が分からないの。でも、すごく寂しそうだった」
「その子は、何と言っていましたか」
「あのね。『まだ、ここにいるよ』って。それで、『わたしを呼んで』って言うから、毎晩呼んでたの。でも名前がないから『ねえ』とか『あなた』とかしか言えなくて」
エリアーナは指をいじりながら言葉を探した。
「そしたらね、その子が札をくれたの。『これに、あなたの名前を書いて。そしたら、迷っても帰れるから』って」
ヴィルヘルムが息を詰めた。アズマリアは静かに尋ねた。
「それは、あなたの名前をその子が預かるということですか」
「ううん、反対。わたしが、その子の迷子札を持っててあげるの」
部屋が静まり返った。フェリクスが杖を握る手を緩め、小さく呟く。
「迷子札……そうか。結ばれには二つの向きがある。呼び手が札の主に縛られる場合と、札の主が呼び手に預けられる場合」
「では、エリアーナが危険に晒されているのではなく」
「むしろ、あの札はこの子を頼って来たのですな」
◇ ◇ ◇
アズマリアは娘を膝に乗せて、ゆっくりと尋ねた。
「その子は、どうして名前がなくなったのか、話してくれましたか」
エリアーナは首を傾げた。
「あのね。本当は忘れたんじゃないって」
「忘れたんじゃない」
「うん。取られたんだって。眠ってるお母さんみたいな人の横で、一人だけ起きてた誰かに」
窓の外で風が止んだ。
白煌が寝台の下から身を起こし、低く唸る。フィーの小さな光が、天井の隅から慌てて降りてきた。
『ちょっと待って。名前を取るのは、あの世界の傷じゃなくて——誰かの仕業ってこと?』
「分かりません」
アズマリアは娘をぎゅっと抱き締めた。
名欠けは、捧げられた名が世界から消える現象のはずだった。盗まれる名など、聞いたことがない。
エリアーナが母の胸元で小さく付け加えた。
「その人ね、顔がなかったって。でも、鈴の音がしたって」
ヴィルヘルムが振り返り、窓の外の海のほうをじっと見据えた。
新月まで、あと十二日。




