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EP127.まだ、ここに

書庫の窓には夜の名残りの藍色が張りついていた。


 積み上げた羊皮紙の埃と古い墨の匂いが冷えた空気に沈み、燭台の蝋がじりじりと小さく鳴る。木の床は素足で踏めば凍みるほど冷たかった。机の中央には白い木札が一枚だけ置かれ、指を近づけると掌ほどの温もりが伝わってくる。


 アズマリアは一睡もせずにその札を見つめていた。白銀の髪は解いたまま肩に流れ、赤い瞳の縁には薄い疲れが滲んでいる。


 「やはり誰の筆でもありませぬな」


 向かいでフェリクスが虫眼鏡を下ろして唸った。


 「結ばれた紐の癖も、旅団のものとは違う。そもそも昨日は文字を書けぬ子にはセーラ殿が付き添っておった。白紙のまま束に入る機会はなかったはずですぞ」


 「それなのにここにある」


 「ええ。まるで札のほうから潜り込んだようで」


 控えめなノックが二度響いた。


 「どうぞ」


   ◇ ◇ ◇


 扉の向こうに立っていたのはガルシュタインだった。大柄な体を屈めて戸口をくぐり、紫の瞳で机の札を一瞥する。


 「夜通し起きているのか。身体を壊すぞ」


 「ガルシュタイン様こそ」


 「我は眠らずとも保つ。それより見せてみろ」


 魔王は札を指先で持ち上げ、燭台にかざした。裏の根源語がかすかに浮かび上がる。


 「《まだ》。ふむ。魔族の聖典にも似た記述がある。名預けの術に混じる《先札》というものだ」


 「先札」


 「錨を求める声は、術者だけが出すものではない。すでに名を失いかけた者が、先に預け場所を探して紛れ込むことがある」


 アズマリアの喉が鳴った。


 「では、この札は名欠けに遭った誰かの」


 「可能性は高い。名を捧げて世界から消えた者は、誰にも呼ばれぬ。だが札だけが辛うじて縁の糸を伸ばしてくる。《まだ》とは、まだここにいる、まだ忘れないでくれという叫びだ」


 フェリクスが杖を握り締めた。


 「数え直して見つけたのはわしですが、この札の訴えを聞き取れるのは根印を持つ御方だけでしょうな」


 白い札は沈黙したまま、掌の上で小さく脈打った。


   ◇ ◇ ◇


 夜が明けきらぬうちに、アズマリアは札を携えて館の屋上へ上がった。


 凍った風が頬を叩き、眼下の街並みは薄い霧の底で青く沈んでいる。遠くの鐘楼から朝の一打が響き、竈に火を入れる人々の煙が細く立ちのぼり始めていた。


 『ずいぶん早起きなのね』


 白い光が肩先に灯った。光の精霊フィーが、ふわりとアズマリアの顔の前に浮かぶ。


 『あなた、目の下が真っ黒。あたしにも分かるわよ』


 「おはようございます。フィー、お願いがあります」


 彼女が札を差し出すと、フィーは羽音に似た微かな光の粒を散らしながら周囲を一周した。


 『……これ、糸が出てる』


 「糸」


 『縁の糸ね。細くて、すごく弱いけど。あなたの根印とつながろうとしてる』


 フィーの指す先を目で追うと、札から髪の毛ほどの光が一筋、霧の向こうへ伸びていた。南へ。海のほうへ。


 アズマリアは息を呑んだ。リザの手紙にあった南の島。夜な夜な海の底から聞こえる、子供の泣き声。


 『ねえ。この糸、辿れるよ。でもたぶん、あたしがついていかないと途中で切れちゃう』


 「今は行けません。新月まで十二日しかない」


 『そうね。じゃあ、とりあえず見るだけ』


 フィーは札の糸にそっと触れた。次の瞬間、二人の視界が白く弾けた。


   ◇ ◇ ◇


 見えたのは、暗い水の底だった。


 冷たい水の中に、小さな灯りがいくつも沈んでいる。一つ一つが木札の形をしていて、どれも文字が消えかけていた。札の下には、膝を抱えた子供たちの影が揺れている。


 誰もが同じ唇の形を繰り返していた。


 (まだ)


 (まだ)


 (まだ、ここに)


 声にならない声が、水底いっぱいに満ちている。その中心に、ひときわ大きな影が眠っていた。山のような背中がゆっくりと上下する。ネイが言っていた、涙で子供を生んだ大きな人だ。


 影の瞼の下から、また一粒、淡い光が零れた。それは札になって水底に降り積もっていく。


 (泣くたびに、名を失った子が増えていく)


 アズマリアは理解した。ネイの世界の傷は、眠る者の悲しみそのものなのだ。


 そのとき光景がぐらりと揺れた。


   ◇ ◇ ◇


 「アズマリア様!」


 ハロルドの怒鳴り声で意識が戻った。


 屋上の石床に膝をついた彼女の肩を、副官が両手で支えている。背後ではヴィルヘルムが蒼い顔で立っていた。


 「おい。あんた、数える間に呼吸が止まってたぞ」


 「すみません。少し、向こうを見てしまいました」


 「少しじゃねえ」


 ヴィルヘルムは短く吐き捨て、彼女の冷たい手を両手で包んだ。


 「頼むから、見るなら見るって先に言え。肝が冷える」


 「……はい」


 素直に頷くと、彼の肩の力がふっと抜けた。


 フィーが小さく震える声で言った。


 『さっきの札、まだ温かいよ。それに——あれ?』


 アズマリアは手の中の白い札を見た。


 裏の根源語が増えていた。《まだ》の下に、細く震える文字がもう一つ。


 《エリアーナ》


 館の階下から、眠りながら歌う娘の子守歌が、かすかに風に乗って届いてきた。


 新月まで、あと十二日。

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