EP126.半歩の向こう
早朝の練兵場には薄い霜が降りていた。
踏み出すたびに草の葉がぱきりと砕け冷たい土の匂いが立ちのぼる。遠い厨房からは麦粥を煮る甘い湯気が流れ込み頬にあたる空気は針のように澄んでいた。昨日千人が名札を結んだ壇の上には麻紐の束が白い布に包まれて安置され朝日を受けてほのかに光っている。
アズマリアは練兵場の中央に立っていた。白銀の髪を一つに結い動きやすい旅装に身を包んでいる。吐く息が白くほどけた。
「では始めますぞ」
杖を突いたフェリクスが地面に白い石灰で細い線を引いていく。線は円ではなく途切れた弧だった。
「渡りの術はいきなり向こうへ行くものではありませぬ。まず半歩だけ踏み出して戻る。これを《半歩渡り》と呼びます」
「半歩でも向こうの気配は触れるのですか」
「触れますとも。そのとき名を保てるかどうかが術者の素質です」
壇の脇ではヴィルヘルムが腕を組み白煌が霜の上に伏せている。ガルシュタインは少し離れた場所で石板を広げ紫の瞳で静かに様子を見ていた。
◇ ◇ ◇
弧の端に立ったアズマリアは根印に手を当てて息を整えた。
「錨の者は」
「旅団の者が百人ほど壇の下におります。名札の束を通して呼び声を送らせますぞ」
フェリクスが合図を出すと壇の下で人々が声を揃えた。
「アズマリア様」
「アズマリア様」
束ねた麻紐が震え見えない糸が足首から胸へ静かに巻きついていく。彼女はゆっくり片足を弧の向こうへ出した。
空気が変わった。
音が消えた。霜の匂いも朝日の温度も遠ざかり代わりに湿った深い闇の匂いが鼻先をかすめる。足の下に地面はなく柔らかな水のような手応えだけがあった。
そのとき闇の底から音が届いた。
ゆっくりとした呼吸だった。
吸って。吐いて。山の腹が上下するような途方もなく長い間隔で。ネイが言った眠る大きな人の息だとすぐに分かった。苦しげに掠れ時おり嗚咽のように途切れる。
(泣いている)
胸の奥が痛んだ。手を伸ばしかけたとき自分の名が遠くで揺れた。
『……ズマリア……』
彼女は慌てて足を引いた。
◇ ◇ ◇
現世の音と匂いが一気に戻ってきた。
膝が崩れかけたところをヴィルヘルムの腕が支える。いつの間にか壇の下から駆けつけていた。
「おい。どれくらい行ってた」
「一息ほどかと」
「ばか言え。四十は数えたぞ」
アズマリアは目を瞬いた。額に汗が滲んでいる。フェリクスが険しい顔で近づき彼女の手首を取った。
「向こうでは時の流れが緩やかなのですな。しかも名を呼ぶ声がかなり遠くに聞こえたのでは」
「ええ。途切れ途切れに」
「千人の声でそれなら本番は危うい。呼び声の質を上げねばなりませぬ」
ガルシュタインが石板から顔を上げた。
「声を揃えるだけでは足らぬ。呼ぶ者が呼ぶ者の顔を思い浮かべながら発することだ。名とはただの音ではなく縁の形だからな」
「顔を思い浮かべる」
アズマリアが呟くとヴィルヘルムが頭を掻いた。
「面倒な話だが要は心を込めろってことか。分かりやすくていい」
「あなたは平気そうですね」
「あんたの顔なら目ぇ閉じても出せる」
さらりと言われ彼女は思わず頬を染めた。壇の下から冷やかすような笑いが起こり、ハロルドが咳払いをして場を静めた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ乳母の部屋でアズマリアはノアハルトを抱き上げた。
窓辺の揺り籠の中で息子は小さな拳を握りじっと庭を見つめていた。頬は柔らかくミルクと日向の匂いがする。腕の中に収まった重みに彼女の胸がほどけた。
「ただいま。寂しい思いをさせましたね」
ノアハルトは母の顔をまじまじと見上げやがて胸元へ手を伸ばした。小さな指が根印のあたりをぺたりと押さえる。
その瞬間だった。
根印がふわりと温かく灯った。ノアハルトはきゃっと笑い反対の手で窓の向こうを指した。空の高いところに昼の月が白くかかっている。
「あー」
「月ですよ。もうすぐ新月になるのです」
息子は不思議そうに首を傾げもう一度月を指した。そして母の頬に額を押しつけすぐに眠たげに瞼を落とした。
アズマリアは眠る息子を抱いたまま長い間動けなかった。この子の温かさを必ず覚えて帰る。そう胸の中で繰り返した。
◇ ◇ ◇
夕刻フェリクスが廊下を早足で追いかけてきた。
「アズマリア様。お時間をいただけますかな」
老書記の顔は強張っていた。導かれて入った書庫の机には昨日の名札の束が広げられている。麻紐に結ばれた札が一枚一枚並べられ整理した帳面と突き合わされていた。
「数え直しておりましたのじゃが」
「千二百三十七枚でしたね」
「いいえ。千二百三十八枚ですぞ」
アズマリアは目を見開いた。
「一枚多い」
「帳面に該当する名がない札が一枚混じっております。しかも」
フェリクスは机の端の一枚を指した。何も書かれていない白い木札だった。しかし指先で触れるとほんのりと温かい。
「わしは確かにこの札が結ばれる場に立ち会っておらぬ。いつの間にか束の中心に挟まっておりました」
札の裏に淡く消えそうな文字が浮かんでいた。根源語で一言。
アズマリアは震える声で読み上げた。
「《まだ》」
窓の外で夕陽が沈み、新月まで残り十三日となった夜が静かに降りてきた。




