EP125.名を預ける朝
館の台所には夜更けの静けさが降りていた。
竈の熾火がかすかに赤く残り壁に掛けた銅鍋が鈍い光を返している。冷めかけた薬草茶の苦い匂いに乾いたパンの香りが混じり古い床板は踏むたびに小さく軋んだ。遠くの廊下で風が窓枠を鳴らす音だけが耳に届く。
卓の向かいで向き合っていたのはアズマリアとヴィルヘルムだった。白銀の髪を下ろした彼女は膝の上で指を組み焦げ茶の髪を乱したヴィルヘルムは腕を組んで椅子の背にもたれている。足元では白煌が丸くなって薄目を開けていた。
「駄目だ」
ヴィルヘルムが低く言った。
「エリアーナはまだ子供だ。扉の向こうに連れていくなんて認められねえ」
「私も同じ気持ちです」
アズマリアは静かに頷いた。
「でも鍵を持つ者が扉の前にいなければ道は開かない。あの子はそれを分かっているのです」
「だからって」
「ですから渡らせません」
ヴィルヘルムが言葉を止めた。
「鍵を扉に差し込む間だけそばにいてもらいます。扉が開いたらすぐに白煌とヴィルヘルムが連れて戻る。渡るのは私だけです」
沈黙が落ちた。熾火がぱちりと弾ける。
「……約束できるか」
「ええ」
「あの子を向こうへ入れないでくれ。それだけは頼む」
「分かっています」
アズマリアはヴィルヘルムの手に自分の手を重ねた。大きな手が少しだけ震えていた。
◇ ◇ ◇
翌朝館の練兵場には千を超える人々が集まっていた。
エルグラードの農民。職人。商人。癒しの旅団の治療師たち。学び舎の子供たち。老いも若きも思い思いの外套を羽織り冷たい朝霧の中で白い息を吐いている。足元の土は露で湿り踏みしめるたびに草の青い匂いが立った。
壇上に立ったアズマリアは深く息を吸い込んだ。
「皆さん今日はお集まりいただきありがとうございます。これから皆さんにお願いしたいことがあります」
ざわめきが静まる。
「私は近いうちに異界へ渡ります。そこで名を失う危険があります。名を失えば誰の記憶にも残りません。それを防ぐには現世に残る皆さんが私の名を呼び続けることが必要です」
一人の老農夫が手を挙げた。
「聖女様。そんなことで本当に繋ぎ止められるんですかい」
「分かりません」
彼女は正直に答えた。
「ですがアーミナという少女は二百年忘れられた名を輪の力で取り戻しました。私は皆さんを信じています」
老農夫が笑った。
「それなら十分だ。あんたがうちの畑を救ってくれたことは一生忘れねえよ」
歓声が上がった。
◇ ◇ ◇
フェリクスが用意したのは細い麻紐だった。
一人一人が自分の名を紙の札に書き麻紐に結んでアズマリアの名札と束ねる。名を預けるという儀式だ。名を預けた者は縁の糸で結ばれ遠く離れてもその呼び声が届くようになる。
「名預けの術ですぞ。魔族の聖典に記された方法を人間用に改めたもの」
老書記は杖で地面を叩いた。
「一人の呼び声は細い糸でも千の糸を撚れば太い綱になる。これが錨の本質です」
セーラが子供たちを連れて列に並んだ。栗色の髪を揺らして一人ずつの札を点検している。
「みんな自分の名前をちゃんと書いてね。字が分からない子はお姉ちゃんが手伝うよ」
「セーラおねえちゃん。ぼくのなまえ」
「ほら一緒に書こう」
小さな手が大きな手に包まれて札に文字を綴っていく。ハロルドが無言で列を整理し領民たちが順に壇へ上がった。一人また一人と名札が麻紐に結ばれ束がどんどん太くなっていく。
昼に近づくころには束は両腕で抱えきれない太さになっていた。
「千二百三十七人です」
フェリクスが数え終えて顔を上げた。
「目標の千人を超えましたぞ」
アズマリアの目が潤んだ。壇の下で人々が拍手している。その中でエリアーナが小さな手を振っていた。
◇ ◇ ◇
夕刻館に戻るとハロルドが書状を持って待っていた。
「リザ殿から届きました。海外からの便です」
受け取った封筒は潮風に曝されたように皺だらけだった。封を切るとリザの力強い筆跡が現れる。
『アズマリア。南方の島で奇妙な現象を見た。夜になると海の底から子供の泣き声が聞こえる。どうやらそちらの世界の傷とは別の場所にも同じものがあるようだ。気をつけろ。扉の向こうにはまだ私たちの知らない何かがいる気がする』
アズマリアは手紙を握り締めた。窓の外で夕陽が赤く沈んでいく。
新月まであと十四日。




