EP124.錨の者
エルグラードの館は秋の夕焼けに包まれていた。
門前の並木はすっかり色づき赤や黄の葉が風に舞って石畳に薄い絨毯を敷いている。焼きたてのパンの匂いが厨房の煙突から流れ出し遠くの畑では収穫を終えた麦束を積む荷車の軋みが聞こえた。冷たさを帯びた空気は肌に心地よく島の湿った潮風とはまるで別の世界のようだった。
島を発って五日。船と馬車を乗り継いで帰り着いた一行のうち馬車から降りたアズマリアを最初に出迎えたのは副官のハロルドだった。短く刈った髪に硬い表情。いつものように背筋を伸ばして立っているがその目の下にはうっすらと隈がある。
「お帰りなさいませ。留守中異常はありません」
「ありがとうございます。ノアハルトは」
「乳母殿のところでご機嫌です。ただ昨夜から少し」
ハロルドは言い淀んだ。
「アズマリア様とエリアーナ様がいなくて寂しいのでしょう。ずっと窓の外を見ていました」
アズマリアの胸がきゅっと締めつけられた。傍らのエリアーナが母の手をぎゅっと握る。
「ただいま帰りました」
◇ ◇ ◇
その夜館の評議の間に主だった顔が集まった。
長卓を囲むのはヴィルヘルムとアズマリア。副官のハロルド。老書記フェリクス。島から戻った熟練の術者たち。そして末席に魔王ガルシュタインの姿もあった。深い紫の瞳を伏せ大柄な体を椅子に深く預けて腕を組んでいる。
「島から戻るのに五日かかった。新月まであと十五日だ」
ヴィルヘルムが口火を切った。
「扉の向こうへ行くのか行かないのか。行くならどう備えるか。そこを決めたい」
「行く以外の選択肢はないでしょう」
フェリクスが杖を握り締めた。
「ネイ殿が申すには向こうの世界の核が目覚めかけている。放置すれば虚無よりも大きな災いが生まれかねませぬ」
「だが扉の向こうは未知の世界だ」
ハロルドが腕を組んだまま低く言った。
「道中何が起きるか分からない。万が一戻れなくなったらどうする」
沈黙が降りる。それを破ったのはガルシュタインだった。
「戻る方法ならある」
全員が振り向いた。魔王は卓の上に古びた石板を置いた。表面には魔族の古い文字が刻まれている。
「我が一族の聖典の一節だ。二つの世界は一本の樹の二つの枝。枝と枝の間を渡る者には錨が必要とある」
◇ ◇ ◇
錨の者とは渡りの術を行う者を現世に繋ぎ止める役目だった。
ガルシュタインは石板の文字を指でなぞりながら説明した。
「渡りの術で道を越える際術者は名を失う危険に晒される。名欠けと同じ理屈だ。向こうの世界は名を持たぬ者に手を伸ばす。だから現世に残る者がその者の名を呼び続けることで存在を繋ぎ止める」
「名の錨か」
ヴィルヘルムが呟いた。
「アーミナがやったのと逆だ。名を捧げた者を呼ぶんじゃなくて名を持ったまま渡る者を呼び続ける」
「そうだ。ただし錨の者は一人では足りぬ。呼び声が弱ければ繋がらぬからな」
ガルシュタインの視線がアズマリアに向けられた。
「そなたが渡るなら錨は最低でも千人。そなたの名を覚え呼ぶ者が千人要る」
「千人」
ナディアの島人七十人でも苦労した。千人となれば相当な数だ。
ハロルドが重々しく息を吐いた。
「旅団の者たちと領民全員に呼びかければ集まるでしょう。ただしそれが本当に名を呼ぶ力になるかは」
「なる」
フェリクスが断言した。
「これまでの共鳴陣が示しておる。人々の想いが一つになれば名は決して忘れられぬ」
◇ ◇ ◇
会議が終わった夜遅く。アズマリアはエリアーナの寝室を訪ねた。
娘は寝台に座って窓の外の月を見ていた。小さな掌の中には割れかけた黒い珠が握られている。
「眠れませんか」
「うん。あのね……お母さま」
エリアーナは珠を見つめたまま小さな声で言った。
「これ。扉を開けるための鍵なんだよね」
「ええ」
「それなら扉が開く時鍵を持ってる人がそこにいないといけないと思うの」
アズマリアは息を呑んだ。娘は顔を上げまっすぐに母を見る。幼い瞳にはもう迷いがなかった。
「わたしも行く。だってネイが待ってるから」
窓の外で秋の風が木々を鳴らす。珠は静かに脈打ち続けていた。




