EP123.迎えに来た札
夜明けの浜辺は淡い薔薇色に染まっていた。
海は元の位置まで満ちて穏やかな波が砂を洗っている。焚き火の煙と温めた牛乳の甘い香りが朝靄に混じり毛布にくるまった術者たちの寝息があちこちから聞こえた。足元の砂はまだ冷たく潮の飛沫が頬を撫でるたびに昨夜の黒い水の記憶が遠のいていく。空には細い雲が幾筋も伸び最初の海鳥が高く鳴いた。
アズマリアは大きな毛布にくるまれて焚き火のそばに座っていた。白い衣はまだ湿っているが身体の芯には温かさが戻っている。両手で包んだ椀の中で薬草茶の湯気がゆらゆらと揺れていた。
「顔色が戻ってきたな」
ヴィルヘルムが隣に腰を下ろした。昨夜から一睡もしていないはずなのにその声は穏やかだった。
「ありがとうございます。皆さんが輪を支えてくださったおかげです」
「ああ。だが最後に名前を呼んだのはあんただ。そこは胸を張っとけ」
彼は照れ隠しのように鼻を鳴らし焚き火に枝を放り込んだ。
◇ ◇ ◇
祠の入口から濡れた足音が近づいてきた。
最初に気づいたのはナディアだった。浜辺へ続く海の道を粗末な麻の衣の少女がゆっくりと歩いてくる。肩まで伸びた黒髪が朝風になびき裸足の足が砂を踏むたびに小さな跡が残った。後ろでは銀色の小さな影が少女の衣の裾を握ってちょこちょことついてくる。
浜辺が静まり返った。
「あれが……」
「アーミナ様」
イサベルが立ち上がった。杖を握る手が震えている。老女は一歩また一歩と少女へ近づきやがて膝から崩れるように砂の上に座り込んだ。
「アーミナ様……ああ。覚えておりますとも。ええ覚えております」
少女は驚いたように足を止めた。そして老女の顔を見つめ首を傾げる。
「あなたは……どなた」
「わたくしはイサベル。あなたの母上の血を継ぐ者でございます。代々あなたをお待ちしておりました」
イサベルは懐から木札を取り出し震える両手で差し出した。
「この札を母上は最後まで手放されませんでした。何があっても手放すなと代々言い伝えて」
アーミナは札を受け取った。木肌に彫られた文字をそっと指でなぞる。
『アーミナ』
彼女の唇が震えた。
「お母さんは……」
「天寿を全うされました。二百年前の話でございます」
少女の目から涙が溢れた。しかしそれは悲しみだけの涙ではなかった。札を胸に抱き締め母の名を何度も呟く。
「忘れないでいてくれたんだ。名前も顔も分からなくなっても札だけは」
イサベルが少女の肩を抱いた。老女と少女は朝焼けの浜辺で長い間そうしていた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ一行は祠の前に集まっていた。
フェリクスが杖をつきながら祭壇の奥に浮かぶ光の輪を調べている。窓は掌ほどの大きさにまで縮まり内側で銀色の光がゆらゆらと脈打っていた。
「これは通い路と呼ばれる状態ですぞ。向こうの世界とこちらを繋ぐ細い道。閉じてはおらぬが大きく開いてもおらぬ」
「維持するにはどうすれば」
アズマリアが尋ねるとフェリクスは石壁の根源語を指した。
「還り歌を歌う者が必要です。歌い守と呼ばれる役割で道の番人のようなもの。アーミナ殿が適任でしょう」
「わたしが」
少女が顔を上げた。ネイが彼女の袖から顔を出す。銀色の子供は窓の向こうとこちらをおずおずと見比べた。
『おねえちゃん……いっしょ?』
「うん。ずっとここにいるよ」
アーミナはネイの頭を撫でた。
「歌い守なら大潮の夜でなくても歌えるのですね」
「ええ。ただし一人に背負わせてはなりません。潮結びの輪を島の者が交代で支えれば負担は分かち合えます」
ナディアが拳を握った。
「わたしたちがやります。もう二度とあの子だけを一人にしません」
イサベルが頷く。島人たちの目に誇らしげな光が灯っていた。
◇ ◇ ◇
夕暮れ小屋に戻ったアズマリアにエリアーナが駆け寄ってきた。
「お母さま!」
「エリアーナ。よく歌ってくれましたね」
「えへへ。喉痛い」
娘は笑って掌を開いた。黒い珠が夕陽の下で怪しく光っている。ただし昨日より大きく表面に細い亀裂が走っていた。
「割れかけてる」
アズマリアが慌てて手を伸ばした時珠がぱきりと乾いた音を立てた。亀裂から淡い光が溢れ小屋の壁に地図のような模様を描き出す。
フェリクスが息を呑んだ。
「これは……向こうの世界への扉の鍵です」
光の模様は星々の配置にも似ていた。その中央で小さな赤い点が一つ瞬いている。
「次の新月の夜に扉が開く。そこへ来いという意味でしょう」
窓の外で夕陽が海に沈んでいった。ヴィルヘルムが低く呟く。
「あと二十日か」
アズマリアは娘の手をそっと握り締めた。珠の光は静かに脈打ち続けている。




