EP122.ネイ
黒い潮は祠の広間を足首から膝へと呑み込んでいった。
床の亀裂から噴き上がる水は氷のように冷たく鼻をつく鉄の匂いが苔の灯りを濁らせる。水位が上がるたびに壁の根源語が悲鳴のように明滅し耳の奥では幼い泣き声が反響し続けていた。吐く息は白く肌に触れる飛沫が針のように痛い。
アズマリアは祭壇の前に立ったまま動かなかった。水面は腰まで届き白い衣の裾が黒く染まっていく。それでも赤い瞳は逸れずに水の中心を見据えていた。
「聞こえますか」
黒い水が波打つ。その中心から小さな影がゆっくりと立ち上がった。
◇ ◇ ◇
それは子供の形をしていた。
墨を溶かしたような体は輪郭が定まらず絶えず揺らいでいる。顔には目だけがありその目は夜空の星のように小さな光を宿して潤んでいた。影は両手で自分の肩を抱き震えながらアズマリアを見上げる。
『やくそく……した……のに』
「ええ。約束を守りに来ました」
『ちがう……みなを……つれてく……ひとりに……する』
水が荒れ狂った。広間の壁が軋み天井から砂が降る。祭壇の前に立つ半透明のアーミナが唇を噛んで身を乗り出したが声が出ない。
アズマリアは両腕を広げた。
「あなたを一人にはしません」
『うそ……みんな……いなくなる……』
「嘘ではありません。見てください」
彼女は根印に手を当てた。広間の壁を伝って外の気配が流れ込んでくる。外輪の太鼓。中輪の詠唱。内輪の四人の祈り。そして——
小さな歌声が聞こえた。
◇ ◇ ◇
エリアーナの子守歌だった。
浜辺の少女が黒い珠を握り締めて歌っている。珠を通した声は根の道を辿って祠の底へ届き広間の水面に細かな光の波紋を広げた。あの旋律。アーミナが二百年前に影の子へ贈り続けた歌。
影の子の目が大きく見開かれた。荒れ狂っていた水が少しずつ静まっていく。
『これ……うた……おねえちゃんの』
「そうです。あなたのために歌っている人がもう一人増えました」
アズマリアは水の中を歩き影の子の前に膝をついた。黒い水が胸まで来る。冷たいはずの水は不思議と温かかった。
「アーミナを返してください。その代わりあなたにはもっと大切なものをあげます」
『なに……』
「名前です」
影の子が息を呑んだ。
◇ ◇ ◇
アズマリアはゆっくりと振り向いた。アーミナの透けた瞳と目が合う。少女は小さく頷いた。
「アーミナ」
彼女はその名を声に出した。
広間の壁の根源語が一斉に眩い光を放つ。外から驚きの声と歓声が遠く響いてきた。輪の者たち全員がその名を聞いて覚えていた。忘れられていた名が二百年ぶりに世界の記憶へ戻っていく。
「アーミナ。応えた歌い手の名はアーミナ。あなたを覚えている人がここにこんなにいます」
少女の輪郭がゆっくりと色を帯びた。透けていた肌に血の気が戻り黒髪が重みを得て肩に落ちる。麻の衣の裾から濡れた素足が覗いた。
アーミナは自分の掌を見つめ恐る恐る握った。そして初めて声を出した。
「あ……あ」
掠れた小さな声だった。
「ありがとう」
涙が頬を伝って落ちた。
◇ ◇ ◇
アーミナは影の子の前に膝をついた。
両手でそっと包み込むように抱き寄せると影の子は驚いたように身を固くしたがすぐに力を抜いて少女の肩に顔を埋めた。
『おねえちゃん……おねえちゃん……』
「ごめんね。待たせて」
アーミナは優しく背中を撫でた。そして囁くように尋ねる。
「あなたの名前はまだ無かったのね」
『なまえ……なに……』
「呼んでもらうためのもの。わたしが捧げたものと同じ」
彼女は子守歌の最初の一節を口ずさんだ。根源語で寄り添うという意味を持つ言葉。
「ネイ。あなたの名前はネイ。わたしの歌が好きだったから」
影の子の体が淡く輝いた。墨のような黒がほどけて柔らかな銀色に変わっていく。星のような目を瞬かせ小さく笑った。
『ネイ……ぼくの……なまえ』
広間を満たしていた黒い水が静かに引いていった。壁の根源語は穏やかな光に変わり祭壇の奥に小さな丸い窓のような光の輪が浮かんでいる。道が閉じたのではない。細く安らかな通い路になったのだ。
◇ ◇ ◇
ネイはアズマリアを見上げた。
『ありがとう……おかあさん……みたいな……ひと』
「アズマリアといいます」
『アズマリア……』
銀色の子供は何かを言い淀んだ。そして怖がるように窓の向こうを振り返る。
『あのね……ぼくの……せかいの……おくに……おおきな……ひとが……ねてるの』
アズマリアの背筋が凍った。
『ずっと……くるしそうで……ぼく……そのひとの……なみだから……うまれた』
窓の向こうの闇の底でゆっくりと何かが身じろぎした。巨大な影が瞼を開くように淡い光が一度だけ瞬く。
『もうすぐ……めを……さます』




