EP121.呼び手の夜
大潮の日の夕暮れ島は祈りの色に染まっていた。
浜辺には島人たちが運んだ松明が一定の間隔で突き立てられ油の焦げる匂いと潮の香りが入り混じっている。遠く沖のほうでは波が不自然に引いていく音が重く響き足元の砂は海水を失ってしんと冷えていた。太鼓の皮を張り直す乾いた音。術者たちが唱える低い詠唱。それらが重なり合って浜全体がひとつの大きな楽器のようだった。
アズマリアは浜の高台から海を見下ろしていた。白銀の髪を一本に編み込み旅装の外套を脱いで祈りのための白い衣を纏っている。赤い瞳には夕陽の最後の橙が映っていた。
「緊張してるか」
背後から声がした。ヴィルヘルムが腕を組んで立っている。焦げ茶の髪は潮風に乱れているが目の下の隈は深い。
「少しだけ」
「嘘つけ。さっきから指が震えてる」
彼女は自分の手を見て小さく笑った。確かに指先が微かに揺れている。
「怖いのです。もし私が戻ってこられなかったらエリアーナが」
「戻ってくる。だから輪があるんだろ」
ヴィルヘルムは言い切ると彼女の手を取った。
「あんたが祠の中で一人になっても外には俺たちがいる。それだけ覚えとけ」
◇ ◇ ◇
日が完全に沈むと同時に太鼓が鳴り響いた。
「ドン、ド、ドン」
島の拍が潮風に乗って夜気へ溶けていく。外輪に並んだ島人七十人が一斉に手拍子を打ち足で砂を踏み鳴らした。中輪の百二十人が声を揃えて詠唱を紡ぐ。
「潮満ちて、潮引きて、息ひとつ」
その声は大地を伝って海へ届いた。沖の水が二つに裂けるようにゆっくりと引いていく。先日見たあの石の門が青黒い海底から姿を現した。
内輪の四人が定位置につく。
イサベルは落ち着いた表情で貝殻の杖を握り締めている。ナディアは真剣な顔で小瓶の海水を指に垂らした。セーラは深呼吸を繰り返しエレオノーラは唇に笑みを浮かべながらも掌に灯した炎を静かに揺らしている。
「アズマリア」
エレオノーラが振り向いた。
「約束して。必ず帰ってくるって」
「ええ」
アズマリアは友の手を握り返した。
◇ ◇ ◇
エリアーナは浜の端でセーラに肩を抱かれていた。小さな掌の中で黒い珠が微かな光を放っている。
「お母さま」
去っていく背中に呼びかけた。アズマリアが振り返るとエリアーナはぎゅっと珠を握りしめた。
「あのね。あの子まだ泣いてるよ。お母さまが祠に入ったらもっと泣くかも」
「分かっています」
アズマリアは膝を折り娘の目線に合わせた。
「だから約束したのです。あの子もアーミナも両方一人にしないと」
「どうやって」
「それはこれから探します」
正直な答えだった。エリアーナは少し考えたあと母の頬に小さな掌を当てた。
「じゃあ待ってるね。お母さまが帰ってくるまで歌ってるから」
アズマリアは微笑んで娘の額に唇を寄せた。そして立ち上がり祠へ続く海の道へ歩み出した。
◇ ◇ ◇
海底の道は両側を海水の壁に挟まれていた。透き通った壁の向こうで夜光虫が青白く瞬き魚の群れが銀の鱗を翻して泳いでいる。足の下では濡れた砂が柔らかく沈み耳には太鼓の拍が遠くから伝わってくる。
石の門は音もなく開いた。
螺旋の石段を降りると円形の広間は先日と同じ静けさに満ちていた。壁の苔が淡く光り祭壇の前には半透明の少女が立っている。
アーミナはアズマリアを見て静かに頭を下げた。
「お待たせしました」
アズマリアは祭壇の前に進み出た。両手を胸の前で組み根印に意識を集める。外輪の太鼓。中輪の詠唱。内輪の四人の力が細い糸のように広間へ流れ込んでくる。
「呼び手の名は《神癒》のアズマリア。この道に応えた歌い手を返していただくために参りました」
声が石壁に反響した。壁一面の根源語が青白く輝き始める。
「その名は——」
彼女は息を吸い込んだ。
その瞬間だった。
外から鋭い悲鳴が届いた。エリアーナの声だ。広間の床に亀裂が走り足元から黒い潮が噴き上がる。
『やだ! いかないで! ひとりにしないで!』
幼い声が洞窟を揺るがした。




