EP120.黒い潮の声
日が落ちきった海は音を失っていた。
寄せては返すはずの波が砂浜の手前でぴたりと止まり墨を流したような黒い水面だけが微かに揺れている。潮の香りは消え代わりに錆びた鉄のような冷たい匂いが鼻を刺した。篝火の炎は風もないのに細く縮こまり吐く息が白く尾を引く。星は一つも見えなかった。
アズマリアは波打ち際の手前に立っていた。白銀の髪が黒い海に淡く映え赤い瞳は沖の闇をじっと見つめている。背後では百二十人を超える術者と島人たちが息を殺して見守っていた。
「近づいてくる」
隣のエレオノーラが紅い髪を指で払い金色の瞳を細めた。掌には小さな炎が灯っているがその火も黒潮の気配に怯えるように揺らいでいる。
「炎が効かない。これ敵じゃないのかも」
「ええ。攻撃の意思は感じません」
アズマリアは胸元の根印に手を当てた。温かい脈動が黒い潮に呼応している。
◇ ◇ ◇
最初の声は海の底から這い上がってきた。
『……たす……けて』
震える幼い声だった。浜辺の人々が息を呑む。ナディアが貝殻の飾りを握り締めて後ずさった。
「声が……水の中から」
黒い潮が音もなく砂浜へ這い上がってきた。波ではない。水面が意思を持つように盛り上がりアズマリアの足元までゆっくりと近づいてくる。
「下がれ!」
ヴィルヘルムが剣に手をかけた。ブランシュ伯も部下たちに合図を送る。だがアズマリアは右手を挙げて制した。
「待ってください。この声は敵ではありません」
彼女は一歩前へ出た。裸足の足指に黒い潮が触れる。氷のように冷たいはずのそれは意外にも微かな温もりを帯びていた。
『さむい……ひとり……こわい』
脳裏に映像が流れ込んでくる。裂けた大地。光の消えた空。泣き叫んでも誰にも届かない孤独。向こう側の世界が負った傷の記憶だった。
◇ ◇ ◇
「あなたは向こうの世界の子ですか」
アズマリアは静かに問いかけた。黒い潮が脈打つ。
『……うた……きこえた……おねえちゃん……うたって……くれた』
「アーミナのことですね」
その名を口にした途端黒い潮が激しく波打った。浜辺の誰もがその名を耳にしたのに忘れなかった。輪の力がまだ残っているのだ。
『みな……おねえちゃん……どこ』
「あの人はこの道の底で眠っています。あなたを一人にしたくなくて名を捧げました」
『……やだ……いかないで……ひとりにしないで』
幼い声が悲鳴のように尖った。黒い潮が津波のように持ち上がる。島人たちが悲鳴を上げた。
「アズマリア!」
エレオノーラが炎を放とうとしたがアズマリアは両手を広げて黒潮の前に立った。
「大丈夫です。怖がらなくていいのです」
《神癒》の光が掌から溢れた。傷ついたものが癒えますようにと祈りを込めて静かに光を注ぐ。黒い潮が震えて動きを止めた。
「明日の夜必ず迎えに行きます。アーミナを返してもらいます。そしてあなたの傷もきっと癒やします」
長い沈黙のあと潮は小さく震えた。
『……やくそく?』
「ええ約束です」
黒い潮がゆっくりと引いていく。砂浜に残された水が篝火の明かりを受けて透き通った。そして波の音が戻ってきた。
◇ ◇ ◇
緊張が解けて人々が座り込む中アズマリアはふらつく足でエリアーナのもとへ向かった。娘は彼女の外套の裾を掴んだまま小さく笑っている。
「お母さますごいね」
「怖くなかったですか」
「うん。だってあの子ずっと泣いてたもん」
エリアーナは握っていた手をそっと開いた。掌には小指の爪ほどの黒い珠が一粒乗っている。艶やかな漆黒の中で淡い光がちらちらと揺れていた。
「波が戻る時にくれたの。持っててって言われた」
アズマリアの背筋が冷えた。珠の中に小さな声が閉じ込められているような気がした。
それは明日の夜に何かが起こる予兆なのか。珠は静かに脈打っている。夜が明けるまでアズマリアは娘の手を握り続けた。




