EP118.アーミナ
夕暮れの浜辺には燃えるような橙色の光が満ちていた。
引き潮の砂地に長い影が伸び寄せては返す波が足首を冷たく洗っていく。島人たちが焚いた篝火から香ばしい焼き魚の匂いが漂い遠くで子供たちの笑い声が潮風に乗って届いた。空には最初の星が瞬き始めている。そんな穏やかな景色の真ん中にアズマリアたちは輪になって座っていた。
中心にはエリアーナがちょこんと座っている。小さな膝の上に例の名無しの札を乗せ両手でぎゅっと握りしめていた。栗色の髪のセーラがその背後で娘を支えるように寄り添っている。ヴィルヘルムは腕を組んで少し離れたところから見守っていた。
「ゆっくりでいいですよ」
アズマリアが優しく促すとエリアーナは小さく頷いて目を閉じた。
「あのね昨日の夜夢の中で教えてくれたの。最初は聞こえなかったけど何回も何回も言ってくれて」
少女の唇がゆっくりと動く。
「アーミナ」
◇ ◇ ◇
その瞬間不思議なことが起きた。
エリアーナの声は確かに全員の耳に届いたはずだった。それなのにナディアが首を傾げた。
「今何か……言いましたよね。でも思い出せません」
「わたくしもです。確かに聞いたはずなのに」
イサベルが額に手を当てる。セーラとヴィルヘルムも同じように眉を寄せていた。耳にした直後に砂が指の間をこぼれるように言葉が抜け落ちていく。
これが名欠けだった。名を道に捧げた者の名は世界の誰の記憶にも留まらない。一度聞いても一呼吸のうちに忘れてしまう。
だがアズマリアだけは違った。
「アーミナ」
彼女は確かに覚えていた。胸元の根印が温かく脈打ち音を逃さず抱きとめている。同じように記憶を保っているのかエリアーナも嬉しそうに母を見上げていた。
「お母さまも覚えてるんだね」
「ええ。根印を持つ者にだけは名欠けが効かないのですね」
イサベルが目を見開いた。
「根印とは忘れられた者を繋ぎ止めるための印だったのでしょうか」
その言葉にアズマリアは掌を見つめた。聖紋と思い込んでいたものが本当は誰かを覚えておくためのものだったとしたら。
札を見ると三文字目がくっきりと浮かび上がっていた。
『ア』『ー』『ミ』
残るのはあと一文字だけ。
◇ ◇ ◇
その夜小屋で作戦会議が開かれた。
「結局どうやって名前を呼ぶんだ」
ヴィルヘルムが卓を叩いた。炉の火が焦げ茶の髪を赤く照らしている。
「祠の壁には名を呼ぶ者あらば道は応える者を返すとあった。つまり祠の中で呼べばいいってことだろ」
「はい。ですが呼ぶ者は応える者の代わりに道に触れることになります」
イサベルが慎重に口を開いた。
「祠の記録には呼び手を失った例もあります。道は名を呼ぶ声を辿って呼び手自身を取り込もうとするのだと」
「つまり危険ってことか」
「ええ。ですから二百年前の潮結びは呼び手を輪が取り囲む形で行われたと伝わっています。島の者が百人ほど手を繋ぎ呼び手の魂を現世に繋ぎ止める綱になったと」
ナディアが悔しそうに膝を握り締めた。
「島の人口は七十人ほどしか……。百人には足りません」
全員が黙り込んだ。炉の薪が爆ぜる音だけが小屋に響く。
その沈黙を破ったのはセーラだった。
「それなら大陸から呼べばいい。お姉ちゃん共鳴陣の訓練をしたでしょ。あの百二十人なら足りる」
アズマリアははっと顔を上げた。
「ですが大陸からここまで二日では」
「ブランシュ伯の飛竜便なら一日で着くよ。わたしがさっき精霊便で頼んでおいた」
セーラは悪戯っぽく舌を出した。
「勝手なことしてごめんなさい。でも間に合わせたかったから」
ヴィルヘルムが苦笑しながらセーラの頭をぽんと叩いた。
「やるじゃねえか」
◇ ◇ ◇
夜更けアズマリアは一人で手帳を開いていた。
几帳面な字で今日のことを書き留める。そして最後の行にその名を記した。
『アーミナ』
インクが紙に染み込むのを確かめ手帳をそっと閉じる。心の中で何度も繰り返した。忘れてはいけない。忘れたくない。
翌朝手帳を開くとそのページは真っ白になっていた。
インクの跡さえ残っていない。それでも彼女の頭には確かにその名が刻まれていた。
窓の外では水平線の彼方に小さな黒い点がいくつも浮かんでいる。飛竜の群れだった。




