EP117.名無しの札
イサベルの家の台所には魚の出汁の湯気が立ちこめていた。
土間の竈では鉄鍋がことことと音を立て貝と海藻の香りが鼻の奥をくすぐる。窓から射し込む朝の光は水瓶の水面に揺れ天井の梁に吊るされた干し魚の影を壁に落としていた。祠から逃げ帰った一行は濡れた外套のまま囲炉裏を囲んでいる。熱い椀を両手で包むと凍えていた指先にじんわりと血が戻ってきた。
アズマリアは椀を置き卓の上に二日分の予定を指で数えた。大潮の夜までは二晩ある。それまでに名を探さなければならない。
「祠の壁に浮かんだ文字は『大潮の夜が明けるまでに』でした。つまり本来の大潮の夜が最後の機会です」
「二百年も欠けていた名をたった二日で」
ナディアが唇を噛んだ。貝殻の飾りが小さく鳴る。
◇ ◇ ◇
午前のうちに一行は島の記録所を訪ねた。
戸籍や出生を綴った分厚い帳面が棚に並び年ごとに束ねられている。二百年前の帳面を開いたナディアが眉を寄せた。
「やっぱり……名前が書いてありません」
十二歳の娘を持つ家は島に三軒あった。そのうちの一つ網繕いの家の欄だけが奇妙に空白になっている。母親の名は記されているのに子の名の箇所だけが水に洗われたように真っ白だった。
「消えたのではありません」
イサベルが空白をなぞった。
「名欠けと呼ばれる現象です。名を道に捧げた者の名は世界から削られますがその跡だけは必ず残ります。島の古い言い伝えでは名欠けの空白に筆を入れても墨は弾かれるそうです」
試しにナディアが筆を置いたが墨は紙の上で玉になって転がり落ちた。ヴィルヘルムが顎に手を当てる。
「記録からは辿れねえってわけか」
「はい。ですが空白の家が分かりました。網繕いの家です」
イサベルは言い淀んだ。皺の刻まれた口元が微かに震えている。
「その家は……わたくしの祖先に当たります」
◇ ◇ ◇
イサベルの家の奥の間の棚に古びた木箱が置かれていた。蓋を開けると中には手のひらほどの小さな木札が一枚だけ入っていた。
何も書かれていない。
「代々受け継がれてきた家宝です。理由は誰も知らないのに『何があっても手放すな』と」
イサベルは札を両手で包み込んだ。
「母から譲られた時にも言われました。この札はいつか必ず持ち主を迎えに来ると」
アズマリアの喉が詰まった。祠で見た記憶の中で母親が握っていたのはこの札だったのだ。名を失った娘を覚えていなくても母の手は札だけは離さなかった。
「少しだけ貸していただけますか」
アズマリアは札を卓の上に置き掌をかざした。《神癒》は壊れたものを正しい形へ戻す力。名を奪われた札にも何かが残っているかもしれない。
「どうか傷ついたものが癒えますように」
淡い光が札に染み込んでいく。木の肌の下に細い線が浮かび上がった。根源語の文字だ。
「読めます」
最初の二文字がくっきりと現れた。
『ア』『ー』
だがその先は光がちらついて形を結ばない。文字は札に触れようとするたび指の間からすり抜けてしまう。
「名を捧げた道がまだ名を握っているのでしょう。私の力では二文字が限界です」
アズマリアは悔しさに唇を噛んだ。ヴィルヘルムがそっと肩に手を置く。
「二文字が分かっただけでも前進だ。エリアーナが聞いたのは『ア……ナ』だったよな」
「ええ。アー……ナ。きっとその間にもう一音あるはずです」
◇ ◇ ◇
昼過ぎ桟橋の方角から鐘の音が響いた。
「船だ! 本島の高速船が着いたぞ!」
島人の叫びに一行は顔を見合わせて走り出した。浜に着くと白い帆を張った小型船が入江へ滑り込んでくるところだった。舳先に栗色の髪の少女が立っている。セーラだった。
その腕に小さな娘を抱いていた。
「お母さま!」
エリアーナが船が接岸するのも待たずに身を乗り出した。アズマリアは桟橋へ駆け寄り飛び降りた娘をしっかりと抱き止めた。
「どうしてここに」
「ごめんなさいお姉ちゃん」
セーラが頭を下げる。目の下には隈ができていた。
「昨夜からずっとエリアーナちゃんが寝言で言うの。『行かなきゃ』『あの人が呼んでる』って。止めても目を覚まさなくて朝になったら自分で荷物をまとめてたの」
エリアーナはアズマリアの胸にしがみついたまま小さな声で言った。
「あのね……お母さま。あの人の名前わかったかもしれない」
アズマリアの心臓が大きく跳ねた。
「聞かせてください」
娘はゆっくりと口を開いた。波音が一瞬だけ遠のいた気がした。




