EP116.名なき歌い手
祠の広間には時が止まったような静けさが満ちていた。
壁の発光苔が淡い緑の光を投げ少女の透けた輪郭を水の底の幻のように揺らしている。乾いた石の匂いに混じって遠くから微かな潮の囁きが届き肌を撫でる空気はひんやりと冷たかった。足元の石床には古い祈りの跡のような擦り切れた溝が幾筋も刻まれている。
アズマリアは一歩ずつ少女へ近づいた。白銀の髪が苔の灯りを受けて薄く光り赤い瞳は少女の目から離れない。少女の目は深い海の色をしていた。悲しみと安堵がいっぺんに溶けたような色だった。
「あなたが……二百年前の」
少女は頷いた。唇が動くが声は出ない。代わりに細い指がアズマリアの胸元の根印を指さした。
「見せてくれるのですか」
もう一度頷く。ヴィルヘルムが背後で息を詰めた。
「おい大丈夫なんだろうな」
「はい。この子は私を傷つけません」
アズマリアは少女の小さな掌に自分の掌を重ねた。冷たい指先から根の道を通じて記憶が流れ込んでくる。
◇ ◇ ◇
海に沈みかけた夕陽の浜辺。粗末な麻の衣の少女が砂の上に座り小さな声で歌っている。傍らで網を繕う母親が穏やかな顔で聞いていた。
「いい声ね」
「あのね母さん。この歌夢の中で教えてもらったの」
少女の夢には毎晩泣いている誰かが現れた。幼い手がどうにか涙を拭こうとするたびその誰かはもっと激しく泣き出した。少女はただ寄り添いたくて歌っていたのだ。
やがて大潮の夜が来た。少女は歌に導かれるまま浜辺を歩き沖に現れた石の門を潜った。
祠の奥で壁の文字が語りかけてくる。
『呼ぶ者に応えるなら己の名を道に捧げよ。名を失えばこの世の誰も汝を呼べず誰も汝を覚えていない。それでも汝は道の要となりて二つの世界を繋ぎ止める』
少女は震えながらも頷いた。泣いている誰かをこれ以上泣かせたくなかった。
『名をください』
少女は自分の名を口にした。その瞬間世界から色が抜け落ちた。母親の手に握られていた少女の名札がただの木片に変わり浜辺で網を繕っていた母が顔を上げて首を傾げた。
「あら……私は何を探していたのかしら」
記憶はそこで途切れた。
◇ ◇ ◇
アズマリアは膝をついたまま嗚咽を抑えられなかった。頬を伝う涙が石の床に落ちて小さな音を立てる。
「あなたは……忘れられてしまったのですね」
少女はそっと首を振った。そして壁の最下段を指さす。擦り切れた文字の上に少女の指先が触れると淡い光が走り失われていた部分がゆっくりと浮かび上がった。
「応える者は己の名を道に捧げ……ただし名を呼ぶ者あらば道は応える者を返す」
ナディアが息を呑んだ。
「名を呼ぶ者が現れれば返してくれるということですか」
「ええ」
イサベルが唇を震わせた。
「ですが誰もこの子の名を知りません。名を呼ぼうにもその名が……」
「いいえ」
アズマリアは立ち上がった。涙の跡の残る頬で少女を見つめる。
「エリアーナは聞きました。ア……ナ……と。この子が私の娘にだけ名を伝えようとしたのだとしたら」
少女の目が大きく見開かれた。唇が「ア」の形をなぞり今度は確かに二音目が加わる。声にはならなかったが「アー」と伸ばすような形をしていた。
◇ ◇ ◇
その時足元が揺れた。
広間の天井から細かな砂が降り始めた。遠い地鳴りのような音が階段の上から降りてくる。
「潮が戻ってくる!」
ナディアが叫んだ。イサベルが青ざめた顔で頷く。
「祠が閉じようとしています。今すぐ出なければ海に呑まれます」
ヴィルヘルムがアズマリアの腕を掴んだ。
「行くぞ!」
「待ってください。この子は」
少女は微笑んでいた。そして口を動かしゆっくりと一つの言葉を伝える。声は無くても意味は伝わった。
『ありがとう もうすぐ 会える』
その姿は苔の光に溶けるように薄れていった。最後に残ったのは壁に新しく浮かんだ文字だった。
『名を探せ 大潮の夜が明けるまでに』
階段へ駆け出した一行の背後で巨大な水音が響いた。




