EP115.潮の祠
海の底に口を開けた石の門は夜明けの光を吸って青黒く沈んでいた。
沖へ数百歩も干上がった海底を一行は黙々と歩いた。足の下で貝殻が砕ける乾いた音がし濡れた砂が靴底にまとわりつく。吹き抜ける風は磯の匂いを通り越して墓所のような冷たい湿り気を運んできた。両側には壁のように切り立つ海水がゆらめいている。まるで巨大な手が海を左右に押し開いたかのようだった。
先頭を行くアズマリアの白銀の髪が冷風になびいた。後ろにはヴィルヘルムとナディアそしてイサベルが続いている。ヴィルヘルムは腰に短剣を差し焦げ茶の髪を潮で濡らしたまま周囲を睨んでいた。
「海が割れてやがる。いつ元に戻るか分かんねえぞ」
「祠が姿を現す間は潮が戻らないと伝えられています」
イサベルが答えた。皺の刻まれた顔に緊張が浮かんでいる。
◇ ◇ ◇
門は近くで見ると家一軒ほどの高さがあった。黒い石の表面には根源語の文様が螺旋状に刻まれ中央に掌ほどの窪みがある。
「根印の形に似ています」
ナディアが灯りを近づけた。窪みの縁は確かに聖樹の葉を象っている。
アズマリアが掌を重ねると胸元の根印がひとりでに熱を帯びた。だが門は動かない。窪みの周囲の文様が淡く瞬くだけだった。
「足りないのかもしれません」
イサベルが口を開いた。
「潮結びは輪を作ることで力を分け合う術です。この門も一人の力では開かない造りなのではないでしょうか」
「なら輪を作ればいい」
ヴィルヘルムが即座に言った。
「あんたとナディアとイサベル様でやれ。俺は魔力が無えから外から見張る」
「分かりました」
三人は門の前に円を描くように立ち互いの手を取った。ナディアが小瓶の海水を指に垂らし島の古い言葉で潮の祝詞を紡ぎ始める。
「満ちるも引くも海の息。ひとつの息をわかち合い、扉を叩く声となれ」
イサベルとアズマリアが声を重ねた。三つの魔力が掌から掌へ流れ円を巡る。潮結びは結節点を一人に固定せず力そのものを循環させることで負荷を分散する。三人の呼吸がぴたりと揃った瞬間窪みから青い光が噴き上がった。
◇ ◇ ◇
門は音もなく内側へ開いた。
中は螺旋の石段が下へ下へと続いていた。壁には発光する苔が淡い緑の灯りを点し空気は不思議と乾いている。足音が壁に吸い込まれ己の鼓動ばかりが耳に響いた。
「静かすぎるな」
ヴィルヘルムが低く呟いた。
どれほど降りたか分からないころ階段が終わり円形の広間に出た。中央に小さな祭壇がありその背後の壁一面に根源語が刻まれている。
アズマリアは石片で見た欠けた一行を探した。そしてそれは壁の最下段に残っていた。
「応える者は……己の名を道に捧げ」
声に出して読んだ瞬間背筋が冷えた。ナディアが小さく息を呑む。
「名を……捧げる」
「続きは」
ヴィルヘルムが身を乗り出した。壁の文字はそこで途切れていた。後に続くはずの部分は水に削られたように摩耗している。
イサベルが震える声で言った。
「二百年前の歌い手の名が欠けていた理由は……それなのでしょうか」
アズマリアは言葉を失った。名を捧げるとは何を意味するのか。名を失った者は誰の記憶にも残らないのか。ア……ナ……と呼びかけた声は消えていく自分の名を必死に伝えようとしていたのではないか。
ヴィルヘルムが肩を掴んだ。
「おい聞け。何があってもあんたに一人でやらせはしねえ」
◇ ◇ ◇
その時祭壇の奥で小さな足音がした。
一行が振り向くと広間の暗がりに少女が立っていた。十二歳ほどの細い体を古い麻の衣が包み長い黒髪が裸足の足元まで垂れている。輪郭はぼんやりと淡く向こう側の壁が透けて見えた。
少女はアズマリアを見つめて微笑み唇を動かした。だが言葉は声にならず空気がかすかに揺れるだけだった。少女は悲しげに首を振る。
代わりにあの子守歌を静かに口ずさんだ。話すことはできなくても歌だけは途切れることなく広間に響いた。エリアーナが眠りの中で歌ったのと同じ旋律だった。
最後の一音が消えた時少女は胸に手を当て自分の名を告げるように唇を動かした。やはり何も聞こえない。ただその唇の形が「ア」の音から始まったようにアズマリアには見えた。




