EP114.潮干の根
夜明け前の干潟は銀色の鏡のように静まり返っていた。
引ききった海の底から現れた砂地は冷たく濡れ素足で踏むと細かな貝殻が掌のように足裏をくすぐる。潮と泥の濃い匂いが鼻腔に満ち小さな蟹が砂を掻く乾いた音がそこかしこから聞こえた。東の空の端がうっすらと青みを帯び遠い波の囁きだけが夜と朝の境目を埋めている。
アズマリアは裸足のまま干潟の中央に立っていた。白銀の髪が潮風に揺れ外套の裾が砂に触れている。赤い瞳は足元に伸びる黒い影をじっと見つめていた。
砂の下から太い根が這い出していた。
艶のある黒い根は網目のように干潟一面へ広がり波打ち際の向こうへ消えている。聖樹の根だった。
◇ ◇ ◇
「これが島の底を走る根です。大潮に近づく三日間だけ潮が深く引いて姿を見せます」
イサベルが静かに告げた。脇にはナディアが貝殻の灯りを掲げて控えている。
「根印を持つ者は根の上でなら遠くの根と心を繋げられると言い伝えられています。わたくしも試した者を見たことはありませんが」
「試します」
アズマリアは即答した。昨夜のセーラの便りが胸の奥に棘のように刺さっている。ヴィルヘルムが心配そうに眉を寄せた。後ろの岩場に腰掛け腕を組んでいたが立ち上がって歩み寄る。
「危なくねえのか」
「分かりません。ですがエリアーナが夜中に苗の前に立っていたのです。確かめずにはいられません」
「……分かった。倒れそうになったら引きずり戻すからな」
「お願いします」
アズマリアは膝をつき両の掌を黒い根へ押し当てた。ひんやりとした感触の奥で何かが脈打っている。目を閉じて祈りの言葉をそっと紡いだ。
「どうか傷ついたものが癒えますように」
◇ ◇ ◇
胸元の根印が温かく灯った。
《神癒》の光が掌から根へ流れ込む。根印を持つ者が根に力を通すと《神癒》は水が低きへ流れるように根の道を辿り遠くの根へ届く。それが根の道と呼ばれる技だった。ただし届く先の様子を視るには術者自身の意識まで道に預けなければならない。
闇が反転した。
足元の感触が消え代わりに柔らかな土の匂いが満ちる。目を開けると館の庭の隅に立っていた。月明かりの下で小さな聖樹の苗が静かに揺れている。
その前に小さな背中があった。
「エリアーナ」
振り向いた娘の目は夢の中のようにぼんやりと開いていた。それでも母の姿を見つけるとぱっと表情が明るくなる。
「お母さま」
「どうして苗の前にいたのですか。眠れなかったのですか」
「ううん。呼ばれたの」
エリアーナは苗の逆さに開いた葉を指さした。
「あの人がね泣いてるの。名前を教えてくれようとしたんだけど途中で消えちゃった。ア……ナ……って」
アズマリアの胸が締めつけられた。
「怖くはありませんでしたか」
「怖くないよ。だって寂しいだけなんだもん。お母さまが来てくれたらきっと泣き止むよ」
幼い声に確信が滲んでいた。アズマリアは娘の頬にそっと手を添えた。温もりが現実のそれと変わらない。
◇ ◇ ◇
視界が揺らいだ。
はっと息を吸うと干潟の冷たい砂の上に倒れ込む寸前だった。ヴィルヘルムの腕が背中を支えている。
「おい! しっかりしろ!」
「大丈夫です……エリアーナに会えました」
顔は青ざめ指先は氷のように冷えていたがアズマリアは微笑んだ。ナディアが慌てて温かい外套を肩にかけてくれる。
「あの子は無事です。ただ苗の向こうで誰かが名前を伝えようとしているようで」
「名前」
「ア……ナ。そこまでしか聞こえませんでした」
イサベルが目を見開いた。
「二百年前の歌い手の名は記録では欠けていましたが……もしや」
その時だった。
足元の黒い根が一斉に淡く光り始めた。光は干潟を走り遥か沖の海面へ向かって一直線に延びていく。波の気配はない。それなのに海の彼方が低く唸った。
ナディアが震える声で呟く。
「潮が……さらに引いていきます。大潮は明後日のはずなのに」
沖の闇の底に巨大な石の門が静かに姿を現そうとしていた。




