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EP113.二百年前の歌い手

島の記録庫は岩屋のさらに奥の暗がりにあった。


 湿った岩肌を伝う水滴が一定の間を置いて石の床を打つ。足を踏み入れるたびに潮の香りに混じって古い羊皮紙と魚油の灯りの匂いが鼻を掠めた。指先で触れた壁はひやりと冷たく苔の湿り気が掌に吸いつく。奥から微かに聞こえるのは海の底から響くような波の唸りだった。


 アズマリアはナディアの掲げる魚油の灯りを頼りに狭い通路を進んでいた。白銀の髪を一つに結い赤い瞳は壁に刻まれた文様をひとつずつ辿っている。大潮までの三日間を島の記録を読んで過ごすと決めたのは昨夜のことだった。


 「ここが島の記録庫です。わたしも子供の頃に一度だけ入ったきりで」


 ナディアは緊張した面持ちで扉を押した。貝殻の飾りが灯りを受けて小さく光る。


   ◇ ◇ ◇


 円形の部屋の壁一面に木の札が並んでいた。一枚ずつに根源語とは違う島の古い文字が刻まれている。イサベルが一枚を静かに外し卓の上に置いた。


 「これが二百年前の記録です」


 札には短い文が連なっていた。ナディアが声に出して読み上げる。


 「大潮の夜に歌が響いた。歌い手は十二の娘。名は欠けて読めない。娘は祠に降り三日の後に戻らなかった」


 アズマリアの喉が鳴った。


 「戻らなかった」


 「記録にはそれだけです。ただ島の言い伝えでは歌い手は消えたのではなく道の要になったと」


 「道の要。結節点のことでしょうか」


 「おそらく。ですが二百年前の結節点は一人でした。潮結びはその後に生まれたのです」


 イサベルは札を指でなぞった。


 「娘一人に背負わせて失ったという痛みから島の人々は荷を分け合う術を編み出しました。大潮の夜に網を輪になって引くのは元はその祈りです」


 ナディアが唇を噛んだ。


 「だから潮結びは必ず輪で行うんです。誰か一人に任せきりにしないために」


 アズマリアは札から目を離せなかった。連ね結びの図が頭に浮かぶ。あれは単なる技ではなく失われた娘への弔いの形だったのだ。


   ◇ ◇ ◇


 昼下がり浜辺ではヴィルヘルムが島の漁師たちに混じって網を引いていた。袖をまくり日焼けした腕で縄を握る姿は領主というより船乗りのようだ。


 「もっと腰を落とせ! 声を揃えろ!」


 「へえ兄さん筋がいいな!」


 笑い声が潮風に溶けていく。子供たちが歓声を上げて走り回り濡れた砂の匂いが辺りに立ちこめていた。


 アズマリアが岩場から降りてくるとヴィルヘルムは縄を仲間に預けて歩み寄った。


 「顔色が悪いぞ。何か分かったのか」


 「二百年前の歌い手のことを少し」


 彼女は札の内容を短く語った。ヴィルヘルムは黙って聞き終えると砂の上に腰を下ろし海を眺めた。


 「要になるのは一人じゃ駄目だって話だよな」


 「はい。ですが応える歌の要は分けられないのかもしれません。石片の最後の一行が読めないのです」


 「読めねえなら読めるようになりゃいい。そのための三日だろ」


 ヴィルヘルムは立ち上がり掌を差し出した。


 「あんた一人で背負う気なら止めはしない。だが輪の外に俺がいることだけは忘れるな」


 アズマリアはその手を見つめた。胸の底で結び目が少しだけほどける。小さく頷いて手を重ねた。


   ◇ ◇ ◇


 夜。借りた小屋の窓から細い月が見えた。


 アズマリアは卓に向かいエリアーナへの手紙を綴っていた。島の貝殻の話や漁師の網引きのこと。心配させまいと危うい話は一行も書かなかった。筆を置いたちょうどその時窓を叩く音がした。


 一羽の海鳥が脚に小さな筒を括りつけて止まっている。筒の封には光の紋が押されていた。精霊便だ。


 開くとセーラの急いだ字が並んでいた。


 『お姉ちゃんごめんなさい。エリアーナちゃんが夜中にベッドからいなくなってた。庭の聖樹の苗の前で眠ったまま立ってて歌ってたの。起こしたら何も覚えてなくて』


 手が震えた。続きがある。


 『苗が光ったの。ずっと眠ってた葉っぱが一枚だけ逆さに開いたんだよ』


 アズマリアは窓の外の海を見つめた。波音の向こうで誰かが呼んでいる気がした。大潮まではあと二日。

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