EP112.大潮の島
船の甲板は夜明け前の潮気に濡れていた。
帆を打つ風は冷たく舷側を叩く波の音が胸の底まで響いてくる。唇を舐めると薄い塩の味がした。水平線の彼方から滲み出した橙色の光が海面の波頭を一つずつ金に染めていき頭上では白い海鳥が高く鳴きながら船の後を追っている。縄と油と濡れた木の匂いが混じり合いここが陸から遠く離れた場所であることを肌が教えていた。
アズマリアは船首近くの手すりに両手を置き白銀の髪を海風に預けていた。旅装の外套の裾が絶えずはためき赤い瞳は目指す方角の薄闇に注がれている。
「寒くねえか」
ヴィルヘルムが厚手の毛布を持って隣に立った。焦げ茶の髪は潮でごわつき眠そうな顔のまま無造作に毛布を押しつけてくる。
「ありがとうございます。……エリアーナのことが気がかりで」
「セーラとハロルドに預けてきたんだ。心配なら着いたら手紙を書け」
「はい」
別れ際の娘の顔が浮かぶ。一緒に行きたいと袖を掴んで離さなかった。置いていくのだと言い聞かせた時の唇の震えを思い出すたびに胸の奥が痛んだ。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ船は島の入江に滑り込んだ。
グランディア諸島の外れに浮かぶナディアの生まれ島だった。先の訪問で見た本島の華やかな港とは違い白い砂浜と黒い岩礁に囲まれたひっそりとした場所だ。桟橋には海風に髪を揺らす少女が立っている。小麦色の肌に貝殻の飾りを編み込んだ濃紺の髪。ナディアだった。
「アズマリア様ヴィルヘルム様! お待ちしておりました」
ナディアは駆け寄って深々と頭を下げた。顔を上げた瞳には故郷の島に戻った安堵と客人を迎える誇らしさが浮かんでいる。
「長老が奥の岩屋でお待ちです。ご案内しますね」
島の道は潮に洗われた石畳だった。両脇の家々の軒先には網と貝殻の風鈴が吊られ風が通るたびに澄んだ音が重なる。島人たちは遠巻きに頭を下げ子供たちが興味津々といった顔で後をついてきた。
「連ね結びの文はご覧になりましたか」
「はい。おかげで輪の形が見えてきました」
「よかった……島ではあの技を潮結びと呼んでいます。大潮の夜に漁師たちが網を引く時の掛け声が元になったと言われていて」
ナディアの声が少し弾んだ。同じ大陸の言葉でも島の言い回しには独特の抑揚がある。ヴィルヘルムが小さく笑った。
「あんたの島の言葉は耳に心地いいな」
「ほ、本当ですか」
頬を赤らめたナディアに案内されて一行は岩屋の前に着いた。
◇ ◇ ◇
岩屋の奥は潮の香りと古い海藻の匂いに満ちていた。波の音が岩壁に反響し低い唸りのように耳に届く。燭台の火の傍らで諸島の長老イサベルが静かに座っていた。
「ようこそお戻りくださいました」
イサベルは立ち上がりアズマリアの手を取った。その眼差しには再会を喜ぶ温かさとどこか言い出しにくそうな影が同居している。
「手紙は読みました。石片が示したのがこの島だというのは偶然ではないと思います」
「どういうことでしょう」
「あなたが初めてこの諸島に来られた日わたくしは《神癒》が言い伝えの中から歩いてきたのだと思いました。ですがお伝えしていなかったことがあります」
イサベルはアズマリアの胸元に視線を落とした。
「大陸ではそれを聖紋と呼ぶと伺いました。けれど島の古い言葉では根印と呼びます。聖樹の根を継ぐ者の印です」
アズマリアは息を呑んだ。聖紋は身分を示す札に過ぎないと教えられてきた。だが根印と呼ばれるそれは血筋や役目ではなく何か別の繋がりを指している。
ヴィルヘルムが身を乗り出した。
「麦畑の石片が示した。この島に石を作った者たちの手がかりがあると」
「あります。ただそれを見るには三日お待ちいただかなくてはなりません」
イサベルは壁際の石盤を指した。月の満ち欠けと潮位が刻まれている。
「三日後に年に一度の大潮が来ます。島の底にある潮の祠は大潮の引き潮の夜にだけ姿を現します。それまでは誰も中へ入れません」
三日。長いのか短いのか分からない時間だった。アズマリアは小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
話が一段落した頃イサベルがふと岩屋の入口へ目を向けた。
「エリアーナちゃんは今日はご一緒ではないのですね」
「はい。今回は留守を預けてきました」
「そうですか……それでよかったのかもしれません」
老女の声がわずかに沈んだ。
「ひとつだけ確かめさせてください。あの子は眠りの中で歌ったりしませんか」
アズマリアの全身が強張った。
「なぜ……それを」
「この島では子守歌として歌い継がれてきた旋律だからです」
イサベルは低く節をつけて呟いた。それはエリアーナが眠りの中で口ずさんだ旋律と寸分違わず重なっていた。
「ただし歌い手が現れるのは災いか救いかどちらかが訪れる時と伝わっています。島の記録にその歌が響いた夜はただ一度しか残っておりません」
岩屋の外で波が大きく砕けた。燭台の炎が揺れ老女の影が壁に長く伸びる。
「二百年前のことです」




