EP111.麦畑の石片
夕暮れの麦畑は黄金の海のように波打っていた。
風が渡るたびに穂が擦れ合い乾いた涼やかな音が畑いっぱいに広がっていく。刈り入れ前の麦の甘い匂いに日に焼けた土の温もりが混じり頬を撫でる空気はどこか懐かしい。かつて灰色にひび割れていた畑の面影はもうどこにもなかった。遠くの農家の煙突からは夕餉の煙が細くたなびいている。
アズマリアは畑の外れに建つ小さな祠の前で足を止めた。
祠はあの日に見つけた石片を雨風から守るため村人たちが建てたものだった。屋根の苔は柔らかく入口には麦の束が供えられている。白銀の髪が風に揺れ赤い瞳が祠の暗がりをじっと見据えていた。
「ここに来るのは久しぶりですね」
「あんたが初めて土を蘇らせた場所だからな」
隣のヴィルヘルムが祠の戸を押し開けた。焦げ茶の髪に夕陽が差し腕を組んだ姿はいつも通り無造作だがその視線は石片へ真っ直ぐ向いている。後ろからフェリクスが丸眼鏡を光らせて駆け込んできた。
「おお……これが例の」
◇ ◇ ◇
石片は掌ほどの大きさで灰色の肌に細い溝が刻まれていた。根源語だ。ヴィルヘルムが蝋燭を近づけるとフェリクスは額がくっつきそうな距離で文字を追い始めた。
肩に乗った精霊フィーが小さな翅を震わせる。
『ねえこの石ずっとあなたのこと待ってたみたい。さっきから光ってるもん』
「光っている」
アズマリアが指を伸ばすと胸元の聖紋がふっと温かくなった。石の溝に淡い光が走り細い線となって広がっていく。以前は一文字も読めなかった碑文が今は不思議なほどはっきりと浮かび上がった。
「読めます……」
「わしにも読めますぞ。いや読めるようになったと言うべきか」
フェリクスの声が震えていた。
「還り歌は二つで一つ。呼ぶ歌と応える歌。傷ついた世界が呼び声を上げもう一方の世界が応えるとき二つの世界の間に道が開く……」
「道ってのは」
「おそらく虚無そのものです」
老書記は眼鏡を押し上げた。
「虚無は世界の傷であると同時に呼び声が通るはずだった道。応える者がいなかったために塞がらず膿のように広がり続けてしまった」
アズマリアの喉が小さく鳴った。胸の底でずっと絡まっていたものがほどけていく。あの泣き声は敵の叫びではなかった。ただ誰かに届いてほしいと願う声だったのだ。
◇ ◇ ◇
「待て」
ヴィルヘルムの声が低くなった。
「応えれば道が開くって話だろ。向こうの傷もこっちに流れ込むんじゃないのか」
フェリクスは頷き石片の最後の一行を指した。そこだけ溝が欠けて途切れている。
「応える者は……ここから先が読めませぬ。ですが文脈からすれば応える側が何かを差し出す必要があると」
「何か」
「結節点です。応える歌を道の要で繋ぎ止める者が要る。輪ではなく一点に全てを背負う者が」
連ね結びの話が頭をよぎった。ナディアの技法は荷を分けるためのものだ。けれど応える歌の要は分けられない役目なのかもしれない。
アズマリアは静かに石片へ掌を重ねた。冷たい石の肌に聖紋の熱が染み込んでいく。
「私が要になります」
「は」
ヴィルヘルムの声が掠れた。
「まだそうと決まったわけではありません。ただ……あの子が歌を覚えているのは偶然ではない気がするのです」
エリアーナの小さな寝顔が浮かんだ。ヴィルヘルムは何も言わず拳を握り締めた。怒りでも恐れでもない感情が横顔に滲んでいる。
◇ ◇ ◇
その時だった。
石片が突然強く輝き溝の光が祠の床へ溢れ出した。光は地面を這い扉の外へ延びていく。麦畑の土の下を根のように走りやがて遥か北西の方角で一点に集まった。
フェリクスが声を上げる。
「地図だ……聖樹の根の地図ですぞ」
光の筋は海岸線を越え波間に浮かぶ小さな島の上で強く瞬いた。ナディアの島だった。
フィーが肩の上で小さな翅を震わせた。
『ねえ あの島に何かあるよ。この石を作った人たち多分そこから来たんだ』
光が消えた後も石片の欠けた一行だけは暗いまま沈黙していた。そこに書かれていたはずの答えが島のどこかで待っている。
アズマリアは北西の空を見つめた。遠く日が落ちた海の彼方へ最初の星がひとつ静かに灯っていた。




