EP110.水鏡の揺らぎ
朝の館の中庭には薄い霧が降りていた。
石畳は夜露を含んで黒く光り踏むたびにしっとりとした冷たさが靴底から這い上がってくる。庭の隅の香草畑からは湿った土とミントの青い匂いが漂い遠くの厩舎では馬の鼻息が低く響いていた。東の空がようやく白み始め霧の粒のひとつひとつが淡い金色を帯びていく。
アズマリアは中庭の長椅子に腰かけ膝の上で両手を固く組んでいた。白銀の髪は夜の間にほつれ赤い瞳の下にはうっすらと影が落ちている。昨夜はほとんど眠れなかった。
足元では白狼の白煌が伏せたまま耳だけをこちらへ向けている。肩の上では光の精霊フィーが小さな身体を丸め心配そうに瞬いていた。
『ねえ あなたずっと息が浅いよ』
「大丈夫です。……話さなければならないことがあるだけですから」
やがて石畳を踏む足音が二つ近づいてきた。
◇ ◇ ◇
「で話ってのは」
ヴィルヘルムは長椅子の向かいの縁石にどかりと腰を下ろした。焦げ茶の髪は寝癖のまま眠そうな目をしているが視線だけは真っ直ぐだった。隣では栗色の髪のセーラが膝を抱えて座っている。
アズマリアはゆっくりと息を吸った。
「虚無の底から聞こえる声のことです。共鳴陣の準備を始めた頃から夜になると私にも聞こえていました」
「声だと」
「はい。言葉にはなりません。ただ泣いているような……助けを探しているような響きでした」
ヴィルヘルムの眉がわずかに動いた。セーラは息を呑んだままアズマリアの横顔を見つめている。
「黙っていて申し訳ありません。輪の話が出た時に気づいたのです。想いが隠せないのなら先に打ち明けておくべきだと」
「あんた一人で抱え込む癖はまだ治ってないな」
ヴィルヘルムは呆れたように息を吐いたがその声は意外なほど穏やかだった。
「怖かったろ」
「……はい」
「なら今度から夜中でも叩き起こせ。迷惑なんて思わねえよ」
アズマリアは目を瞬かせた。胸の底に沈んでいた棘がふっと軽くなる。
「お姉ちゃん」
セーラが袖を引いた。
「わたしも聞こえてたかもしれない。同調の訓練のとき輪の端っこでね誰かが歌ってる感じがしたの。怖くて言えなかった」
その告白にアズマリアはセーラの肩をそっと抱き寄せた。
◇ ◇ ◇
昼前フェリクスが運んできたのは銀の大鉢だった。
「水鏡です。聖樹の雫を満たしておりますので心結びの相性をうつし出せます」
老書記は鉢を長机に据え蝋燭を一本だけ灯した。
水鏡とは古い魔術具で二人以上が水面に掌をかざすと互いの魔力の波長が波紋となって現れる。波紋が重なり合い同じ形に落ち着けば想いの共鳴が深い証。乱れて食い合えば輪の中で弾ける恐れがある。連ね結びの人選にはこれ以上ない道具だった。
「まずアズマリア殿とセーラ殿から」
二人が並んで掌をかざす。水面が静かに揺れ細い同心円がゆっくりと広がった。波紋は寄り添うように重なりやがて一つの美しい輪になる。
「綺麗……」
セーラの頬がほころんだ。
「次はエリアーナ様を」
部屋の隅で絵本を抱えていたエリアーナがとことこと歩いてくる。小さな掌が母の掌の隣に添えられた。
その瞬間水面がふっと凪いだ。
◇ ◇ ◇
波紋は一つも立たなかった。
それは乱れたのではない。母と娘の波長があまりにも深く重なり合い揺れること自体が必要なくなったように見えた。
「これは……」
フェリクスが眼鏡を押し上げた。
「完全な同調です。文献には根源語の時代の『写し身』にのみ見られた状態だとあります」
ヴィルヘルムが低く唸る。
「娘の方が結節点の素質ありってことか」
「素質というより……」
老書記の言葉が途切れた。
水面の中央に一粒の雫が落ちたように小さな波紋が立ったのだ。誰も触れていない。波紋は一つ二つと数を増やしやがて母娘の輪の外側から別の輪が静かに広がり始めた。
重なろうとしている。まるで鉢の向こうにいる誰かが水面越しにこちらへ手を伸ばしているかのように。
アズマリアの胸元で聖紋が強く脈打った。
「……フィー」
『うん 分かってる』
精霊の声が震えていた。
『あの輪ね ずっと前から待ってたんだ。あなたとエリアーナちゃんが揃うのを』
水面に映る蝋燭の炎がふいに逆さの形に歪んだ。昨夜見た逆さの葉の印によく似ていた。
その向こうで誰かの小さな指先が水面を叩くように最後の波紋が一つ広がり静かに消えていった。




