EP109.連ね結び
館の書庫は夜になると大きな生き物の腹の中のようになる。
天井まで届く書架の隙間を縫って蝋燭の灯りが細く揺れていた。古い羊皮紙の甘く埃っぽい匂いに燃える蝋と煮出した薬草茶の香りが重なっている。足を動かすたびに石の床がひんやりと靴底へ冷えを伝え、どこか遠くで頁をめくる乾いた音が小さく響いていた。
アズマリアは卓の端に腰を下ろし湯気の立つ茶碗を両手で包んでいた。白銀の髪は緩く肩へ流れ赤い瞳は卓上の巻物に落ちている。昼の訓練の疲れが指先に鈍く残っていた。
「届きましたぞ。ナディア殿からの返書です」
老書記フェリクスが丸眼鏡を押し上げながら一通の封書を差し出した。背は曲がり指先はインクで黒ずんでいるが目だけは若い学徒のように輝いている。
封を切ると潮の匂いがふわりと立ちのぼった。島で使う防水の紙らしい。几帳面な文字の隣に小さな図が描き添えられている。輪になった七つの点とそれらを結ぶ細い線。
「連ね結び。島ではそう呼んでいるそうです」
◇ ◇ ◇
「要するにこういうことだ」
ヴィルヘルムが図の横に炭筆で数本の線を足した。袖をまくった腕には書庫に籠もった疲れが滲んでいる。
「結節点を一人に背負わせるから潰れる。なら複数に分けて互いを結び合わせればいい。島の漁師が網を一人で引かず輪になって引くのと同じ理屈だ」
「ただの分担ではありませんよ」
アズマリアは図の線をなぞった。
「結節点同士の想いの共鳴が揃っていなければ輪の中で力が食い合って弾けます。つまり誰を置くかが全てです」
「そこでわたしの出番だよね」
扉が開き栗色の髪のセーラが顔を覗かせた。腕には訓練で使った記録板を抱えている。
「同調の相性なら今日いっぱい見てたもん。お姉ちゃんの次に揃ってるのは大神官様と……あと意外だけどブランシュ伯の副官さん」
「エレオノーラですか」
「うん。炎の人なのに聞く力がすごく高いの」
その名にアズマリアの口元が自然とほどけた。かつて同じ壇に並んだ友の顔が思い浮かぶ。
「あんた今ちょっと嬉しそうだな」
「そう見えますか」
「見える」
ヴィルヘルムが短く笑った。アズマリアは湯気の向こうでほんの少しだけ視線を逸らした。
◇ ◇ ◇
連ね結びの核心はフェリクスの解読によって形を得た。
結節点は本来ひとつの術式の要でありそこへ全ての詠唱者の魔力が流れ込む。しかし七人で輪を作れば魔力は七つの流れに分かれ互いの間を巡りながら均されていく。一人あたりの負荷は七分の一になる。ただし代償があった。
「輪の誰かが想いを乱せば全員に響きます」
フェリクスは声を落とした。
「喜びも迷いも恐れも隠せない。かつて根源語の時代にはこの輪を『心結び』と呼んだと古文書にあります」
「隠せない……」
アズマリアは呟いた。胸の底にあの夜から消えない小さな棘がある。異界の声を聞いたことをまだ誰にも言い切れていない。もし輪に入ればそれすら全員に伝わってしまう。
その沈黙をヴィルヘルムは何も言わず見ていた。
◇ ◇ ◇
夜更け。書庫の灯りを落とし寝室へ向かう途中アズマリアは廊下の端で足を止めた。
歌が聞こえた。
か細く低く静かな旋律。エリアーナの部屋からだった。そっと扉を開けると娘は寝台の上で眠ったまま小さく口を動かしていた。唇から零れるのは言葉ではない。聞き覚えのない響きの連なりだった。
「エリアーナ」
呼びかけても目は開かない。ただ歌は続いている。
不意に背後で足音がした。蝋燭を掲げたフェリクスが息を切らして立っている。
「アズマリア様……この歌をどこで」
「眠りながら歌っているのです」
老書記は震える手で懐から一枚の巻物の断片を取り出した。昼間に書庫の奥から見つかったという羊皮紙の切れ端だ。余白に細い根源語が走り書きされている。
歌の響きと文字の並びがひとつに重なった。
断片の一行をフェリクスが読み上げる。
「還り歌……ひとつの世界が別の世界を呼び戻すための歌だと」
その瞬間アズマリアの胸元で聖紋がじわりと熱を帯びた。
羊皮紙の端に押された署名の印は聖樹の葉を象っていた。ただしその葉は上下が逆さに刻まれている。
娘の歌がふと途切れ囁きが落ちた。
「ねえ……もう泣かないで」
誰に向けた言葉なのか。アズマリアは娘の小さな手を握りしめたまま逆さの葉の印から目を離すことができなかった。




