EP106.壁画の最後の一節
洞の最奥に朝の光が細い筋となって差し込んでいた。
天井の隙間から落ちる光が壁画の古代文字を金色に照らしている。苔の淡い輝きと混じり合い石肌からは夜露に濡れた土の匂いが立ち上っていた。どこか遠くで水の滴る音が静寂を刻んでいる。
アズマリアは一晩眠らずに壁画の前に立ち続けていた。
「少しは休んだらどうだ」
背後から声をかけたヴィルヘルムに彼女は振り返って小さく微笑んだ。
「もう少しで読めそうなんです。この文字は不思議と懐かしい気がして」
その横顔にセレーネが静かに歩み寄った。
「焦らなくて構いません。千年待ったのですからあと少しの時間は惜しくありません」
◇ ◇ ◇
アズマリアが再び壁画に手を触れた時古代文字が脈打つように輝いた。
「――あ」
文字の意味が頭の中に流れ込んでくる。声に出して読み上げるアズマリアの言葉を全員が息を詰めて聞いていた。
「《虚無とは悪意にあらず。傷ついた異界が助けを求める声なり》」
その一節に洞の空気が凍りついた。
「助けを求める声だと」
ヴィルヘルムが低く呟いた。
「ガルシュタイン様は虚無を異界から流れ込んだ災厄だと語っておられましたが」
フェリクスの言葉にアズマリアは続きを読み進めた。
「《異界もまた癒えぬ傷を負い溢れた痛みがこの世界へ流れ込んだ。神々はそれを拒み封じたが真に必要なのは癒やすことであった》」
◇ ◇ ◇
読み終えたアズマリアはしばらく言葉を失っていた。
「世界の傷を押し込めたのではなくその向こうにも癒やされるべき世界があったということですね」
「ええ」
セレーネが静かに頷いた。
「巫女様もそれに気づいておられました。だからこそ魔族だけが傷を負う形に最後まで反対なさったのです。……拒むのではなく癒やすべきだったと」
オルディスが深く目を閉じた。
「千年の間我らは敵を知らぬまま苦しんでいたということか」
その呟きにリザが拳を握りしめた。
「じゃあ虚無は倒す相手じゃなくて助ける相手だったってこと」
「そうなりますな」
フェリクスの声は震えていた。
◇ ◇ ◇
洞の外に出たアズマリアは朝日に照らされた森を見つめていた。
「私が癒やしたのはこの世界の傷だけでした。向こう側の傷は何一つ触れていません」
隣に立つヴィルヘルムが静かに答えた。
「あんたが全部背負う必要はない。そう何度も言ってきたはずだ」
「分かっています。でも」
アズマリアは小さく息を吐いた。
「放っておけないんです。傷ついているものを知ってしまったら」
その言葉にヴィルヘルムは少しだけ口元を緩めた。
「そう言うと思った。……なら一緒に考えよう。何ができるか」
◇ ◇ ◇
その日の午後セレーネは一行に新たな提案をした。
「異界へ続く道はこの大陸の中央にある古い祭壇に残されています。ただし開くには多くの力が必要です」
「また皆の力を結ぶということですね」
アズマリアの確認にセレーネは頷いた。
「あの方がかつて描いた図面も祭壇に遺されているはずです。……ですがその前に一つ心に留めておいてください」
彼女は真剣な眼差しで続けた。
「異界の傷はこの世界のそれよりも遥かに深いかもしれません。軽い気持ちで踏み込める場所ではないのです」
その警告に一同は静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
夕暮れ洞の前で一行は焚き火を囲み今後について話し合っていた。
「一度戻って仲間を集めるべきかもしれないな」
ヴィルヘルムの提案にセーラが頷いた。
「うん。旅団の皆にも相談したいし」
「国境の長老たちにも声をかけねばなるまい」
オルディスの言葉に皆が賛同した。
炎の揺らめきの中でアズマリアは静かに空を見上げた。
助けを求める異界の声。それに応えるという新しい選択が今目の前に開かれようとしている。
その先にどのような出会いと試練が待っているのか。答えはまだ遥か遠い星の向こうにあった。




