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102/155

EP102.出発前夜

エルグラードの港には夕暮れの穏やかな光が満ちていた。


 整備された船の帆が夕風を受けて静かにはためいている。潮の香りに混じって係留された船から立つ木とタールの匂いが漂ってきた。遠くで水鳥の鳴き声が響き波が桟橋を打つ音が規則正しく続いていた。


 明日出発する南方調査隊のための最終準備が進められている。


   ◇ ◇ ◇


 積み荷を確認するヴィルヘルムの傍らでフェリクスが古い地図と記録帳を丁寧に荷に収めていた。


 「必要な資料は全てこちらに」


 「ありがとうございます。フェリクスさんも本当に同行されるんですね」


 アズマリアの言葉にフェリクスは眼鏡を押し上げながら微笑んだ。


 「この年で新しい大陸をこの目で見られるとは。断る理由がどこにございましょう」


 その答えにアズマリアは温かく頷いた。


   ◇ ◇ ◇


 船の甲板ではセーラとダリオが装備の最終点検をしていた。


 「浄化の道具は全部揃ったか」


 「うん。ナディアの島から借りた海水の瓶もちゃんと詰めた」


 二人のやり取りに通りがかったリザが声をかけた。


 「準備万端みたいだな。あたしも何度もあの航路を渡ったから。何か不安なことがあれば聞いてくれ」


 「頼りにしてます」


 セーラの答えにリザは力強く頷いた。


   ◇ ◇ ◇


 国境の交易地からはガルシュタインの指名を受けた長老の魔族が駆けつけていた。深い皺の刻まれたその顔には長い歳月を生き抜いてきた者だけが持つ静かな威厳があった。


 「我が名はオルディス。千年の記憶を語り継ぐ役目を担ってきた」


 その名乗りにアズマリアは深く頭を下げた。


 「お力をお借りできて光栄です」


 「なんの。そなたのおかげで我らの一族は再び外の世界と繋がりを持てるようになった。この旅もその恩返しの一つだ」


   ◇ ◇ ◇


 夕暮れの港には家族で見送りに来たエリアーナとノアハルトの姿もあった。


 「お母さまお父さま気をつけてね」


 エリアーナの言葉にアズマリアは優しく娘の頭を撫でた。


 「ええ。留守の間セーラ先生の言うことをよく聞いてくださいね」


 「うん! ノアハルトのこともちゃんと見てるから!」


 幼い弟の手を握るエリアーナの頼もしい姿に周囲が温かい笑みを浮かべた。


   ◇ ◇ ◇


 夜が更け船の出港を翌朝に控えたアズマリアは甲板に一人立ち静かな海を見つめていた。そこへヴィルヘルムが歩み寄ってきた。


 「眠れないのか」


 「少し。未知の場所へ行くというのは何度経験しても不思議な緊張を覚えます」


 その答えにヴィルヘルムは静かに頷いた。


 「俺も同じだ。だが」


 彼は星空を見上げながら続けた。


 「一人じゃない。あんたの傍にはいつも誰かがいる」


 その言葉にアズマリアは静かに微笑んだ。


 「はい。それが何より心強いです」


   ◇ ◇ ◇


 翌朝港には見送りの人々が集まっていた。人間魔族そして島の文化を受け継ぐ者たち。多様な顔ぶれが一つの船出を見守っている。


 「行ってきます」


 アズマリアの声に合わせて船がゆっくりと桟橋を離れ始めた。


 見送る人々の声援を背に船は南へと舳先を向けていく。


 まだ見ぬ大陸にどのような真実が眠っているのか。そして世界の傷を見守り続けたという者の正体とは何なのか。


 その答えを求める航海が今静かに幕を開けようとしていた。

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