(37)迎えに来たぞ
俺の家は中央本線の線路に近い。
部屋にいても、電車の音が聞こえてくる。
だが不思議なもので、慣れていると別に気にならないし、何かに熱中していたりすると聞こえもしない。
(今のは特急だな、塩山停車だから『かいじ』か。)
そんな風にわかる時というのは、気が散っていて何にも集中できていない。
俺は机の上に型紙用の方眼紙を広げて、朝倉さんのための巾着の図案を考えていた。
いや、正確に言うと、考えようとしていた。
なぜか、まったくやる気が出ない。
氷見の巾着を作った時も、戦隊コスチュームを作った時も、こんなことはなかった。
むしろ次から次へとアイデアが浮かんできた。
(うーん。)
電車が行き過ぎた後、部屋は静寂に包まれる。
家の中の、誰かの足音まで聞こえるほどだ。
洋太が階段を駆け上がってくる音がした。静かでなくても聞こえる。
うるさいな、と思っていたら、乱暴に部屋のドアが開いた。
「兄ちゃん!」
最近、洋太は俺のことを「兄ちゃん」と呼ぶようになった。「お兄ちゃん」の「お」が取れた。
「なんだよ、うるせえな。」
「アイドルみたいな人が来た。」
大丈夫か、こいつ。
「へえ、よかったな。」
弟のヨタ話に付き合ってやるほど暇じゃない。
「ちがうよ、兄ちゃんに、会いに来たんだよ。」
「お前なあ、もう九時だぞ?子供はもう寝ろ。」
「いや、ほんとだって、兄ちゃんの名前も知ってたぞ?」
はいはい、わかったよ、どうせ宗教の勧誘とかだろ。
仕方がないから部屋を出て階段を降りる。
親父は食卓で新聞を読んでいたし、お袋は台所で洗い物をしていた。
いたのなら、追っ払ってくれりゃあいいのに。
そう思いながら勝手口のドアを開けると――朝倉さんと千夏が立っていた。
洋太が言う通り「アイドルみたいな人」で間違いない。
スカートは制服だけど、上はバドミントン部のTシャツだから、俺の同級生とは思わなかったらしい。
(えっ、朝倉さん?!な、なんで?)
驚きが遅れてやってきた。慌てて外に出て、ドアを閉める。
「よ、直人。詩織の家に行ってきたんだ。」
ああ、そういうことか。って、どういうことだ?
ただ二人の様子から、氷見はどうやら心配なさそうだ。
それは安心したけど、その帰りに俺の家に寄った意味がわからない。
「ねえ、結城君。」
朝倉さんが一歩、俺のほうに歩み出た。
「私に何か言うことない?」
「えっ…あ、巾着か、えっとごめん、まだ手をつけてなくてさ。」
「ふーん、詩織にはすぐ作ってあげてたのに?」
「いや、あれは、その…ごめん。」
あの時は「いやがられ作戦」の遂行中で、なんて言えないし。
「それだけ?」
え、他に何かあったっけ?
「直人ー、いいのかあ?ラストチャンスだぞー?」
千夏が横で笑っている。なんのチャンスで、何がラストなんだ?
それより、朝倉さんのいたずらっぽい、妖艶な微笑みが魅力的すぎて、頭が回らない。
「はーい、時間切れ。」
朝倉さんはそう言って、千夏のほうに振り返る。
「ナッツ―、私、告白される前にフラれたんだけど。」
意味がわからない。
代わって、今度は千夏が俺のほうに進み出た。
「詩織はさ、直人が陽菜のことを好きだって思ったらしい。」
いや、千夏、今、ご本人の前なんだが?
「それで、落ちこんで学校に来れなくなってるんだってよ。」
えっと、なんだって?
(待て、ちょっと落ち着こう。)
俺が、朝倉さんを好きだ、と知った氷見が、なぜ落ちこむんだ?
「直人、まさかここまで言っても『わからない』なんて言わないよな?」
意味はわかった。
(氷見が…俺を…?)
そこから先は、あまり記憶がない。
俺の頭の中が、氷見のことでいっぱいになってしまったからだ。
そして目も耳も、機能しなくなった。
気がつくと、俺は店の前の歩道に、一人で立っていた。
俺はのろのろと家の中に入り、そのまま部屋に戻ってベッドに倒れこんだ。
――翌朝。
俺はいつもよりだいぶ早く家を出て、塩山駅を通り越し、国道に向かう坂道を下っていった。
氷見を迎えに行くためだ。
何を話し、何を伝えるか、それはまだ、まったく整理がついていない。
ただ、氷見を学校に連れて行く。
そして、「俺と氷見の日常」を取り戻す。
氷見の家は、すぐに見つかった。
「さすがにここは違うだろう」と思って通り過ぎようとした立派な櫓門に「竹下」と「氷見」の表札が並んでいた。
「でっけえ家だな。」
門を入ると、二棟の石蔵と、二棟の納屋が左右にあって、松と石灯籠の立つ庭を抜けるように飛び石が母屋の玄関に続いていた。
不思議に、圧倒される気持ちはなかった。
(まあ、大丈夫だろう。)
朝、同級生女子の家に迎えに行く、なんて非常識な行動も、こんな屋敷に住むご家族なら疑問に思わないに違いない。『庶民の皆さんはこういうものなのか』と思う程度だろう。
そう無理矢理に自分を勇気づけて進んでいく。
玄関の呼び鈴を、躊躇なく押す。
「ポーン」
というベルの音が、くぐもって聞こえてきた。
しばらく待つと、カラカラと引き戸が開いて、品の良いご婦人が顔を覗かせた。
氷見をそのまま大人にしたような人だから、お母さんだろう。
「おはようございます。甲斐高校の結城と申します。お嬢さんをお迎えに参りました。」
と、頭を下げる。
「まあ、結城さん?娘がいつもお世話になっております。ごめんなさい、主人はもう畑に出てしまって」
いやいや、お母さん、お父様には用がないのですが。
この母にしてあの子である。
「いえ、あの、詩織さんに」
とまで言ったところで、奥の部屋から氷見が転がるように走り出てきた。
「ゆ、結城君?ど、ど…」
どうしたの?または、どうしてきたの?だろ。まったく。
氷見は制服を着ているから、今日は学校に行くつもりだったらしい。
「迎えに来たぞ。」
俺は久しぶりにとても穏やかな気持ちになっていた。
お母さんが、「うふふ」と笑った。
「詩織、準備なさい。忘れ物しないようにね。」
「う、うん。」
「結城さん、よかったらお上がりになって。」
「いえ、外で待たせていただきます。」
さすがに登校準備中の女子高生がいる家にお邪魔はできない。
氷見が踵を返して奥に消えていくと、入れ替わりに弟の光生君が出てきた。
そういえばここ、光生君の家でもあったよね。
「おはようございます。」
礼儀正しい美少年だ。どうやら母親似らしい。
「よう、光生君。」
「お母さん、この前、洋太の家でお兄さんに夕飯をご馳走になったんだよ、カツ丼。」
「まあ、結城さんはお料理もお上手なんですね。」
「あ、いえ。」
あれを料理と言われるのは気恥ずかしい。
「光生にねだられて何度か作ったのですけど、なかなか納得してもらえなくて。作り方を教えていただきたいわ。」
スーパーで買ったロースかつと市販のめんつゆで作った、なんて言えないよなあ。
「はあ、あの、機会がありましたら。」
とりあえずそう言ったけど、どんな機会があるというのか。
「あー、光生君、このことは洋太には、その…」
「あ、内緒ですね。わかりました。」
光生君が聡い子でよかった。いや、よかったのか?
今さらになって、自分がとんでもないことを仕出かしているような気分になった。
俺が二人にお辞儀をして玄関の外に逃げ出し、数分待つと、氷見が登校の用意を整えて出てきた。
小さなクマをぶら下げた鞄を持って、少し顔を赤らめながら、氷見は俯いている。
(ああ、俺、こいつのこと…)
どことなく頼りなくて、だけど強い芯がしっかりと通っているような立ち姿だ。
気持ちが溢れ出て、言葉になりそうになって、俺は別の言葉を口に出した。
「久しぶりだな。」
氷見は顔を上げて俺の顔を見た。
「うん。たった二日なのに。」
一昨日の朝からだから、まだ二日にもなっていない。
だが、途方もなく長い時間のように思えた。
「少し痩せたか?」
「そうかも。今朝までほとんど食べられなかったから…。」
「ばかだな。」
氷見は、「うん」と頷いて、恥ずかしそうに笑った。
「行くか。」
「うん。」
今日は梅雨の中休みだと朝の天気予報で言っていた。
広々と青空が広がって、町の向こうに見える連山に朝日が当たっていた。




