(35)え、朝倉さんが?
昨日今日と、何かがおかしい。
文化祭から一週間あまりが経った。
火曜日の二限目が終わった休み時間、俺の机の上にはスカートが広がっている。
同級生女子の、制服のスカートだ。
(なんで、こんなことに…)
持ち主は、長谷川彩乃さん。文化祭の舞台で、最初に悪役に捕まったテニスウェア少女だ。
さっき、ジャージ姿でやって来て、
「結城君、ごめん、スカートのここ、ほつれちゃって…これ、直るかな。」
と、スカートを持ってきたのだ。
「そりゃ、直るけど…」
俺は例のしょぼい車の巾着から裁縫セットを取り出した。
裾上げした部分の糸がほつれていたから、それを切って、まつり縫いにする。
表から縫い糸が見えにくい縫い方で、それなりの技術がいるが、数センチのことだから五分もあれば終わる。
先週から、その兆しはあった。
最初に来たのはラグビー部の怪人・橘で、ユニフォームの襟がちぎれかけているのを縫い合わせてやった。
ついでに、校章を模したワッペンも剥がれそうだったから縫っておいた。
それから、ワイシャツのボタンが取れただの、ポケットを止める糸が切れてピラピラしてるだの、ズボンの股が裂けただの、繕いの依頼がちょくちょくあった。
先週は男子だけだったから気にしなかったが、昨日から急に女子が増えた。
さっきまで着ていた、まだぬくもりが残っているような衣服を、同級生男子に渡すか?
(どう考えても、おかしいよな、これ。)
要するに、人畜無害認定である。便利屋ルートへまっしぐらだ。
朝倉さんとの距離を縮めたくて頑張った衣装づくりで、俺は同級生全員との距離を縮めてしまったらしい。
「はい、できたよ。」
「え、すごっ、どこを縫ったのかもうわかんないんだけど。ありがとう!」
長谷川さんは、喜んでスカートを抱えて席に戻っていく。
入れ替わりに千夏がやってきた。
「直人ー、ラケットのグリップテープ巻いてくれよ。」
「待て、千夏。裁縫関係ならまだわかるが、なんでグリップテープまで頼んでくる?」
「えー、だって上手くできないんだよ。」
だってじゃねえよ。というか、理由になってないし。
「まあいいや、どうやって握るんだ?」
言い争う時間のほうが無駄だ。
「え、こう。」
こいつ、性格はこんななのに、指まできれいだな。
「その指の方向に沿って巻くようにすればいいのか?」
「ああ、まあそうだな。」
ラケットの根元から、テープの端を折りこんで、微妙に重ねながら巻いていく。
巻き終わったら、先端を折ってラケット本体にテープで止める。
「はいよ。」
「おう、さんきゅ。ところで直人、詩織はどうした?」
昨日と今日、氷見が学校に来ていない。
「あー、千夏、あとでちょっと相談していいか?」
「わかった、次の休み時間に聞くよ。」
無遅刻無欠席の氷見が、二日も続けて休んでいる。
女子は急に体調が悪くなったり、動けなくなったりすることがあるらしいから、心配ないのかもしれないが、なんだか少し胸騒ぎがするのだ。
一昨日の日曜日、氷見は三日月の刺繍をした布と、大量のお菓子を持ってやってきた。
いつもと変わらない様子で、むしろいつもより明るい表情だったように思う。
「結城君の言った通りだった。刺繍ね、前より少し上手になったかも。」
「うん、たしかに、きれいにできてるな。」
「あ、これ、遅くなっちゃったけど、お礼なの。あんずのジャムのクッキーと、フィナンシェと、カップケーキと、あと昨日収穫したサクランボ!」
「おお、すごいな、ありがとう。」
「うん、サクランボは早めに食べてね。」
「わかった、冷やしとく。」
サクランボを冷蔵庫にしまって、氷見が自分のために作りたいというブックカバーの縫製に取り掛かった。
ミシンの設定をした以外は口を出さずに見ていた。
前回は「売り物」だったから、寸法のチェックを手伝ったが、それも手を出さなかった。
氷見は実に滑らかに作業を進め、一時間もかからずにブックカバーを完成させた。
「できたっ!」
自分で持ってきた文庫本にカバーを装着して、氷見は満足そうに笑った。
その後は、文芸部の作品集について、少し話した。
小林弥生という子が書いた推理小説を褒めたら、
「弥生ちゃんはね、謎を作るのは上手なんだけど、解き方がわからなくなっちゃうの。」
と、作品が仕上がるまでのやり取りなども話してくれた。
「ありがとう、結城君。また明日ね。」
そう言って、嬉しそうに帰っていった。
翌月曜日、つまり昨日の朝も、氷見にはいつものように塩山駅で会った。
ところが、電車が来る前に「忘れ物をした」と慌てて引き返していった。
氷見の家まではどんなに急いでも十分くらいはかかるだろうから、次の電車にも間に合わない。
(遅刻確定だな。何やってんだ。)
遅刻してまで取りに戻らなければいけない忘れ物なんてあるのか?と思いながら、俺は一人で登校したのだが、その後、氷見は学校に来なかった。
さすがに心配になって、
『どうした?』
とチャットを送ったら
『心配かけてごめんなさい。今日は休みます。』
と返信が来た。そのまま、今日になっても氷見は登校していない。
三限目が終わると、千夏が来て廊下に連れ出された。
「悪いな、千夏。氷見が休んでるのが、なんか腑に落ちないというか、おかしいように思うんだよな。」
「直人、詩織になんか言ったんじゃないのかー?」
「俺が?うーん、どうだろう。」
俺は日曜日のこと、それから昨日の朝のことを千夏に話した。
「えっ、昨日の朝、駅で会ったの?」
「ああ、それでさ、話の途中で急に忘れ物に気づいたみたいで、家に引き返していったんだよ。」
「どんな話をしてたわけ?」
「普通に挨拶して、あ、そういえば巾着の話をしたな。俺が前に氷見に作ってやったやつ。」
「うん、それで?」
「ああ、それで、朝倉さんも巾着を欲しがってる、って言ってたな。」
「えっ、陽菜が?」
「ああ。だから、作ってみるよ、って話したんだけど。」
「それだけか?直人はどう思った?」
「千夏にだから言うけど、そりゃ俺だって嬉しかったよ。朝倉さんが俺の作ったものを欲しがってくれるなんてさ。」
「詩織にそう言ったのか!」
「いや、言ってないよ。作ってみる、って言っただけ。そしたら、氷見が急に「あ、忘れ物しちゃった」って言って。止める間もなかったな。」
「……。」
千夏は黙って、それからしばらく空中に視線を泳がせた。
これは千夏が何かを考える時の癖だ。
「とりあえずわかったよ。詩織に連絡とってみる。」
そう言って千夏は、なんだかやけに難しい顔をして教室に戻っていった。
千夏は、俺と氷見の昨日の会話が、氷見の欠席の理由だと考えているようだ。
(なんかあったっけ…?)
朝のホームでの、氷見との会話を思い出してみる。
「あの、結城君、あのね。」
「ああ、どうした?」
「結城君が作ってくれた巾着のことなんだけど、陽菜ちゃんも欲しいんだって。」
「え、朝倉さんが?」
「うん、そうなんだ。」
(来たっ、ついにこの時が…)
「ああ、いいよ、作るよ。」
これまでの苦労が報われた、と思った。朝倉さんの期待に応えるべく、最高の仕事をしなくては、と。
ただ同時に、大きな戸惑いも感じていた。
この数日間で、実は俺の気持ちに変化が起こっていたからだ。
きっかけは、文化祭の打ち上げの帰り道だった。
同級生たちにもてはやされ、感謝されたのは嬉しかったが、同時にそれ以上の疲労も感じていた。
「ちょっとだけ、お散歩しない?」
氷見にそう言われて、俺はなぜかとても救われた気持ちになった。
今となってはどうでもいいような話を氷見としながら、夕方の町を並んで歩いて、二人できれいな夕焼けを眺めた。
(こんなのもいいもんだよな。)
俺はそう思ったのだ。
氷見とふざけ合いながら、たまに手を貸してやりながら、俺が少し疲れた時には、癒してもらう。
いつの間にか、氷見は同級生の中で一番気安く話せる相手になっている。
朝倉さんは、俺が知る限り、この世界で最も美しく、気高く、尊い女性だと思う。
彼女に憧れる気持ちはもちろんある。
だが、「女子として高く評価している」ということと、「好きだ」ということは違うのかもしれない。
だって例えば、朝倉さんと二人きりでどこかに出かけることになったとする。
まず、何を着ていけばいいのかもわからない。
きっと緊張して、ろくに会話もできず、当然、朝倉さんを楽しませることなんてできやしない。
憧れの朝倉さんに巾着を作る、というのは光栄なことだし、全力を尽くしたいが。
(なんていうか…片思いの卒業試験みたいなものかもしれないな。)
そう思った時だった。
「あっ、結城君、ごめん、忘れ物しちゃった、先に行ってて。」
氷見が慌てたように、身を翻して駆けていった。
「お、おい…」
今から戻ったら遅刻だぞ、と言う間さえなかった。
(俺、何も言ってないよな。)
セクハラ発言もしてないし、怒らせるようなことも言っていないと思う。
釈然としない思いを抱えたまま、席に戻る。
前の席がぽっかりと空いている教室が、妙に寒々しく思えた。




