電界特捜 電現室/序
数年前、ラスベガスの壇上で、ビリー・オズニアックという技術者が言った。
十分に発達した技術は、魔法と見分けがつかない、と。
そして、超弦理論の先に見つけた「もうひとつの世界」を、仮想の現実と名づけ、その技術を誰でも使える形で世に放った。
その世界はインター・ヴァーチュアと呼ばれている。
人はまだ、そこに住んではいない。住んでいるのは、相変わらずこちら側だ。
化石燃料の残りを数える声は年々大きくなり、冬ごとに節電の呼びかけが増えた。何年か前には、国じゅうの通信と金融が一夜で止まる騒ぎもあった。それでも、たいていの人は、いずれ誰かが何とかするのだろうと思っていた。
この国の明かりの何割かを、誰もが危ういと知っている原子の火が支えていることにも、目をつぶったまま。
ただ、こちら側の電気も、水も、列車も、いつの間にか向こう側で動かされるようになった。
向こう側へ入るための鍵は、まだ誰もが持っているわけではない。企業と国が、仕事のために配っているだけだ。
向こう側には、国境がない。
あるのは、企業が自分のものだと線を引いた土地だけだ。
どの国も、そこに土地を持っていなかった。
警視庁本部
東京都千代田区霞が関
2023年1月10日 午後2時00分
「華園警部補を、そちらで引き取ってもらいたい」
公安部の参事官は、薄い綴じ込みを机の上で開いた。
「二十四歳。 外事四課では、一番、耳がよかった。 中東の訛りを村ひとつの単位で聞き分けて、一件、未然に止めている。 度胸もいいし、捜査も確かだ……。 徹底的に固めて、大陸の某国の工作員を炙り出した。 しかも、抵抗されたときには、眉一つ動かさずに射殺したよ。 なのに、一年前、本人の希望でサイバー攻撃対策センターに移った。 移った先でも、協力者を一人使って、半年で一件、身代金ウイルスを貸し出す連中を、組織ごと挙げている」
「優秀ですね」
「優秀だよ。 優秀すぎて、調べるなと言ったことまで調べる。 それに……移りたがった理由も、仕事ではなくてな。 実に私的なことでね……」
参事官は、声を落とした。
「その少し前に、身内が事故に遭っている。 大学の、向こう側がらみの実験だ。 本人は、あれを事故だと思っていない」
「調べたんですね」
「職権でね。 止めたが、止まる人間なら苦労せんよ。 ……あの実験に金を出していたのは、国が頼りにしている会社だ。 余計なところに首を突っ込まれると、火種になる」
参事官は綴じ込みを一枚めくり、眉を寄せた。
「それと、私生活だ。 休みのたびに、派手な衣装で人前に立っている。 何が楽しいのか、顔を出して、列を作らせて、写真まで撮らせる始末だ。 公安の所属という以前に、公務員として、遺憾と言うほかない」
「それは、規則に、触れますか?」
「触れんよ。 ――だから、遺憾なんだ」
宇垣慎は、膝の上の手帳を開かなかった。
「辞めさせるには惜しい。 置いておくには危ない。 ……そういうことですか」
「そういうことだ。 君のところの地下なら、ちょうどいいだろう」
参事官は、ようやく宇垣の方を向いた。
「条件が一つある。 手綱をつけてくれ。 何を調べ、誰に会ったか。 火がつく前に、こちらが知っておきたい」
「見張りは、つけますよ」
宇垣は穏やかに答えた。
見張られているあいだは、切られない。この男は、それで安心して彼女のことを忘れるだろう。
その事故のことを、宇垣は聞き返さなかった。
聞き返す必要が、なかった。
廊下に出てから手帳を開き、万年筆で一行だけ書いた。
――華園夏菜子。警部補。
電地現治安予備室
東京都千代田区霞が関 合同庁舎 地下二階
2023年1月24日 午前11時00分
その男は、社員証を首から下げたまま、地下二階まで降りてきた。
「いやぁ、いい部屋ですねぇ。 配電盤が、そのまま残ってる」
ゆるめたネクタイに、袖をまくったワイシャツ。指先に、小さな火傷の痕がいくつもある。
三叉電気、第二開発部、実証試験室、室長。来栖恭介。
「専門官、という肩書きを用意した。 向こう側のことは、君に聞くことになる」
「光栄です。 ……うちの会社が、僕をここに置きたがる理由は、ご存じですよね」
「君の会社は、ここで起きることを見たい」
「見たいのは、数字ですよ。 事件じゃなくて」
来栖は悪びれずに笑った。
「構わない」
宇垣は言った。
「君の会社に報告するのは、自由だ。 ただ、私の報告より先に届くのは、困る」
来栖の鼻歌が、一瞬だけ止まった。
それから、また続いた。
「怖いなぁ、室長。 ……それで、うちの子は、お貸しできますけどね。 乗る人のほうは、うちの社員じゃないんですよ」
来栖は、名残惜しそうに言った。
「去年の秋から、試験空域で毎日飛んでもらってます。 あの人が乗ると、数字が別物になる。 ……ただ、市ヶ谷からの預かりものでして」
「知っている。 だから、これから、もらいに行く」
来栖は社員証を揺らしながら、階段を上がっていった。
鼻歌が聞こえなくなってから、宇垣は手帳を開き、万年筆で一行だけ書いた。
――来栖恭介。専門官。
防衛省 統合幕僚監部
東京都新宿区市谷本村町
2023年2月7日 午後4時00分
応接室の窓から、冬の低い日が差していた。
制服の男は書類に判を押すと、それを机の向こうへ滑らせた。
一等陸佐、草鹿。
統合幕僚監部で、電戦特車連隊の構想を預かっている男だ。
陸も海も空もなく、向こう側で動く部隊を作る。その機体を、企業に作らせている。
「百田一曹は、去年の秋から三叉電気に出してある。 構想の実証機の、テストパイロットとしてだ。 そちらにも籍を置く形でいい。 機体ごとね」
「助かります」
「礼には及ばんよ。 こちらも、それ以外には、置き場に困っていた。 それに、実際にそちらの部屋へ行かせるには、ほかにもいくつか手続きが要る。 時間がかかるぞ。 予備室とはいえ、文民統制に関わる事案だからな」
「心得てますよ」
草鹿は、宇垣の顔を見た。
表情は、読み取れなかった。
日本という、表面上の平和にあぐらをかいた国にあって、自分とほぼ同じ時期に、インター・ヴァーチュアへの国家の介入を考え、実行に移した男だと聞いている。
仮想現実の世界で内務省の復活を目論んでいる、などという物騒な噂すらあった。
草鹿は椅子の背にもたれた。
「帯広の件は、聞いているだろう」
「書類の上では」
「書類に書いてある以上のことは、知らなくていい。 ……腕は確かだ。 だが、確かすぎた。 ああいうのを部隊に置いておくと、周りが困る」
草鹿は、厄介払いだということを隠しもしなかった。
「一つだけ、条件がある」
「伺いましょう」
「数字だ。 あの機体が向こう側で何をしたか、全部こちらに回してもらう。 構想には、実績が要る。 よその国は、もう企業と組んで動いている。 構想が極秘なのをいいことに、うちの人間を札束で引き抜きにまで来る始末だ。 国防上も、可及的速やかな対処が必要だ」
「インフラが国土の上にあるのではない。 所在も曖昧なインフラのほうが、国土になってしまった。 ……その問題は、こちらも同じですよ。 我々がほしいのは、前例だ。 事例を積んで、それをもとに、国としての主張を立てる。 利害は一致している、と理解しています」
「そういうことだ。 百田一曹だがな、使い潰してくれて構わんよ」
宇垣は書類を鞄にしまった。
「そちらは、実績を。 こちらは、守る者を。 ですが、使い潰しはしませんよ。 駒を守るのも、指し手の仕事です」
草鹿は鼻で笑った。
廊下に出てから、宇垣は手帳を開いた。
――百田多聞。一等陸曹。
少し考えて、その下にもう一行、書き添えた。
――捨てた側は、何を捨てたのかを知らない。
公安が持て余した警部補。
企業が送り込んだ目。
国防が手放した操縦者。
厄介者と借りものばかりで、その部屋はできあがった。
予備室、という名前のとおりに。
最初の事件は、その一週間後の夜に起きた。




